現代ではグローバリゼーションという名のもとに、米国に代表されるアングロサクソン型資本主義・自由市場主義が世界共通の基準であるかのような考え方が広まっている。しかし、現実には自由市場はアングロサクソン的な特異なものであったし、それは少なくとも他のどんなヨーロッパ社会にも見られなかった環境の中で築き上げられたものであった。それはほかのどんなヨーロッパ社会にも見られなかった環境の中での築き上げられたものであり、それが完全な形で存在したのもせいぜい一世代の期間だった。歴史的にみれば、アングロサクソン型資本主義や自由市場というのは19世紀以降登場した特異な資本主義と市場形態なのである。

 では、アジア、特に急速な経済発展を遂げた日本・韓国・台湾など東アジアでは従来、市場をどのように認識してきたのか。この地域での中心的な役割を果たしたプレーヤーである華人の経済取引とは相手の固有名にこだわって排他的、選択的に取引相手を維持していこうというネットワーク型といえる。アングロサクソン的(むしろ米国的といった方がより正確かもしれない)な基準からみるとまさにインサイダー取引であり、縁故主義であろうが、華人にとってはこういうネットワークの中にこそ礼や仁という徳あり、公がある。こうした背景から華人的経営が生まれるのである。

 こうした市場が成立した背景には、中国という国家が歴史的にみて商人の経済活動の市制度的枠組みをサポートしようという関心が全く欠如していたことがあった。商人は必要な経済秩序の維持を、家族・同族といった個人的な保証に頼らざるを得なかったのである。こうした違いは、ネットワーク型が前近代的で匿名型が近代的であるいった歴史の単線的な発展段階の相違で解消されるようなものではない。また、東北アジア一体の共通文化となる儒教には敬天愛人の思想があるために人間関係を非常に重視する傾向が強い。人間の集団生活をスムーズに営むことを考えている。

 ただし同じ儒教国でも、日本と中国では大きな差があり、日本では個人が属する集団(おおやけ)に対する帰属意識は個人や血縁などの身内よりも上位を占めるのに対して、中国(華人)では血縁などの身内への帰属意識が他の集団よりも優先する。例えば企業で働く日本人がしばしば感じる、日本人が会社へ持つ忠誠心と比較した華人のもつ企業への帰属意識の弱さは文化的な違いなのである。

人々が自発的に作り上げる市場組織のあり方は、その国の風土、歴史に強く依存している。そのため市場での競争圧力だけで、市場組織のあり方が容易に変質して同質化すると考えるべきではなく、国や地域にはそれに適した市場経済の型や進化があると考えるべきであろう。もともとグローバリゼーションは国家経済の相違があるからこそ栄える。これからの市場とは、米国の自由市場のコピーが全世界に出来あがるのではなく、いくつかの新しい型の市場の出現をもたらす。

 白石隆は、政治的意図に基づいて形成されたEUとは異なり、政治的意思なしに企業活動から形成された日本、韓国、中国、台湾、東南アジア諸国からなる東アジア共同体が、今後の日本にとって日米同盟と並ぶ世界の中で現在の地位を保つためのカギであると指摘する。東アジア共同体とは東アジア、東南アジア圏の中産階級が形成する市場そのものであり、それは歴史的、文化的な相違を持ちながらも、あるまとまりを持つ大きな市場なのである。

東アジア地域にある東京や上海、香港、シンガポール、ジャカルタ、バンコクなど大都市には著しい類似性があるが、一方で各地域はさまざまな歴史、民族、宗教などが織り成す多様性を持つ。東アジア地域における多様性と類似性の共存は、米国のように民主主義や自由市場といった強力で理想的なイデオロギーに基づく社会形成とは異なった、中核を求めない穏やかな開かれた東アジア的なアイデンティティーの形成を期待させる。東アジア地域のもつ多様性の尊重と、多様性に対する寛容性はグローバルな社会が成立するための鍵である。それはグローバルに活動する企業にも全く当てはまる。