木と鉄の文化

 照葉樹林文化にみられるように照葉樹林の育む極めて豊かな森林資源や、豊かな海に囲まれて、農業だけではなく漁業や林業など日本には多くの生業が営まれ、それを江戸時代までは「百姓」と総称された。

江戸時代までの「百姓」はけっして農民だけでなく、商人、船持、鍛冶、大工などきわめて多様な生業を営む人々が含まれていた。儒学の影響を受けた官僚の多い明治政府において「百姓=農民」が制度化されたのである。人口の80?90パーセントを占めるとされた「百姓=農民」のうち実は約40パーセントは農業以外の生業に携わる人々であった。

 富山県桜町遺跡から木材を精密に加工し組み合わせた、のちの法隆寺の建築にも用いられたという高度な技法のあったことを証明する縄文時代の建築部材が発見された。これは、縄文時代の人々がこれまで予想されていなかった高度な建築技法を身につけ、住居の樹木による建築がふつうの人々によって日常的に行われていたことを示唆していた。どれほど日本人が樹木に大きく依存して生活してきたのかを再認識する発見であった。

 現在でも「日用大工」がふつうのひとびとの生活に広く浸透し、また、最近まで小学校から高校までの教科の中に大工の工作がくみこまれていたように、いまも日本の社会の中に生きつづけている。神業といわれるほど日本の建築職人の技術は、こうした百姓的な建築技術の広い基盤に支えられて開花したものと考えられる。

 15世紀になると木曽・飛騨の山は東西の大寺院の造営に用材を供給する木材の大産地となっているが、14世紀以降、列島各地に都市が発達するようになるとともに、家屋、自社の建築も活発化し、材木に対する需要も急増、河川を流される木材も著しく増加した。都市の発達とともに、各地の山々で、林業が巨大な産業として発展を遂げていった。そして木材の輸送路としての河川を通じて、こうした山々は海と不可分の結び付きを持ち、自らを広い世界に向けてひらいていた。実際、木材は列島から大陸に、平安時代後期からさかんに輸出されていたのである。

多くの農民が従事した稲作は高度な土木技術と水利技術が要求される高度な農業形態である。寒冷地域の多い日本で恒常的に生産するには技術面からの支えが必要であった。それが製鉄技術、鉄の加工技術であった。日本列島に稲作が普及していくには鉄の技術が必要であったのである。

 中世までは日本の製鉄はまだ原始的な小規模分散的生産の段階にとどまっていたが、室町時代になると、急激に、とりわけ中国山地で進歩をとげる。製鉄の過程で幻聴の砂鉄を溶解・還元させるためには大量の木炭が必要になるが、この地域は良質な砂鉄を生産するだけでなく、木材資源にも恵まれていた。古くから「たたら製鉄」技術が行われていたが、室町時代ころには、それが技術的に成熟するとともに、砂鉄の採取方法でも「鉄穴(かんな)流し」という技術革新が進んでいた。「たたら製鉄」や「鉄穴流し」は海外ではほとんど見られない製鉄技術である。日本の鉄文化は単なる移入文化の域を超え、独自の展開を見せるようになった。

 加工技術で独自展開したのは中世の刀剣の鍛造である。日本刀は鍛造技術の結晶とも言えるものだが、刀剣技術がほぼ完成したのは鎌倉から室町時代にかけてであった。とくに、室町幕府は、明との貿易で刀剣を主な輸出品とし、莫大な利益を上げた。この時期、日本は世界的な武器輸出国だったのである。

 明治期、近代製鉄が日本に本格導入されてからわずか100年で日本の製鉄技術は世界一なったが、こうした背景には日本で古代から培われてきた製鉄や加工の技術、そして導入された技術に改良を加える創意工夫の積み重ねがあったことは否定できない。

 さらに、こうした技術の発展の背景には、明治維新に先立つおよそ300年に近い平和という大きな要因があった。こんなに長く継続した平和は世界の歴史上に例がない。室町幕府以降の内戦のために混乱した社会で滞りがちであった、学問、英術、工芸、商業、産業すべての部門にわたる文化的経済的な遅れを江戸期に取り戻すことができた。鉱山開発や新田作りのための土木技術などさまざな技術が盛んになったが、それらすべては江戸時代において限界に達し、さらなる新段階に飛躍するにはなにか新しい刺激が必要になっていた。その刺激とはヨーロッパ文化に他ならなかったことは当時の知識人たちは気付いていた。