物流の歴史 オランダ・イギリス東インド会社の盛衰

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オランダ東インド会社の盛衰

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1 オランダの成長と東インド会社の設立

「アムステルダムが世界市場の中心となった17世紀はオランダの世紀と呼ばれる。」¹³⁾

オランダは鰊漁を中心に漁業を発展させることができた。鰊漁は、漁船の建造をはじめ各種手工業、商業の発展を促し、操船技術の向上にも寄与して海運業発展の土台となった。鰊漁は、「オランダ発展の母」と認められるほど、オランダにとって重要な産業部門だった。農業には適さない低湿地が多かったため、多くのオランダ人が早くから漁業や海運業などを営んで海に進出していた。¹⁴⁾

 海運・商業を発展させたオランダは、活動領域を北海から東のバルト海へと拡大させていった。バルト海から輸入される穀物、さらには海運資材をヨーロッパ各地に運搬する海運業で、巨額の利益をえて、ヨーロッパの物流の中心になった。¹⁵⁾

この時代、オランダはヨーロッパの対外進出に必要な海運資材を、さまざまな国に輸送した。オランダの物流システムがなければ、ヨーロッパはヨーロッパ外世界へ進出できなかった。ヨーロッパの世界支配は、18世紀末までは、オランダの物流システムに大きく依存していたのである。¹⁶⁾

 海運業者の中には、ポルトガルのリスボンに赴いて胡椒や香辛料など東インドの品物を仕入れ、それをバルト海沿岸の諸地方まで輸送する者もいた。しかし、オランダとハプスブルグ家が戦争状態に入ると、オランダはイベリア半島の港の町への寄港を差し止められた。そのため、オランダ人は自力で東インドへの航海を目指すこととなる。¹⁷⁾

2 オランダ東インド会社の組織

「東インドとの貿易とは、誰もが簡単に参加できるほど簡単なものではなかった。堅実な商人や金融業者の多くは、リスクが大きく資金が長期間固定される東インド貿易には手を出さず、より安全で短期に資本を回収できるヨーロッパ域内の貿易に投資した。16世紀末に相次いで組織されたオランダの船隊の場合は、資金に余裕があり高い利益を期待する商人や金融業者が、アムステルダムをはじめとする年ごとに共同で出資した事業だった。16世紀末の段階で、東方との貿易に意欲を持ち、それを実行できるだけの財力を有していたのは、オランダのいくつかの都市とロンドンの資本家だけだった。」¹⁸⁾

オランダでは1595年から1602年にかけてアジアと貿易する会社が14できた。諸会社が競い合ってインド洋に船団を派遣し、胡椒・香料を求めたので、現地での買い入れ価格は上昇し、本国での販売価格は下落するなど共倒れになる危険性があった。¹⁹⁾

「政治家の介入もあり、1602年3月連合東インド会社が成立した。1600年に発足したイギリス東インド会社とくらべると、10倍以上にあたる約650万ギルダーの資本金を集めた世界最初の株式会社であった。1799年まで約200年間存続した永続的な海商企業となる。」²⁰⁾この会社の成立がポルトガルと大きな違いを生むこととなる。

 オランダ東インド会社は出資額を限度とする有限責任制であったが、株主総会が設置されず、経理内容も公開されずに配当も不規則で恣意的であるなど、現代企業と比較するとガバナンスが不十分であった。また、オランダ東インド会社はオランダという国に属しながら、いちいち政府の許可を得ることなく海外で要塞を建設し、総督を任命し、兵士を雇用することができるなど準国家といってもよい存在であった。ただし、東インド会社は、政府の特許状を得ているが、あくまでも民間の会社である。オランダ政府が設立した国営企業ではなかった。会社の船は大砲を積んではいるが、オランダ海軍の船ではない。オランダという国とオランダ東インド会社は一体ではない。²¹⁾

組織的には、6つの会社が合同してできたオランダ東インド会社は複雑な組織であった。オランダ東インド会社には本社はなく、都市に拠点を置くカーメルと呼ばれる6つの支部があった。それぞれの支部は造船所を持ち、独自に艤装を行って船を東インドへ派遣した。17人会の下に財務、監査、管財、艤装、通信などの委員会が置かれた。委員会の主な仕事は、東インドへ派遣するカーメルごとの船の隻数と社員、船員、水夫の人数の決定、東インドへ送る商品の種類と数の決定、東インドへの注文品の種類と数の決定、東インドから受け取った商品の入札競売、出資者への配当額の決定などだった。²²⁾

会社経営全般については、各支部の代表60人からなる取締役会が責任を持った。ポルトガルのピア・グループではなく、地域別の単純層組織となることで、取引コストを削減することができたと考えられる。

 オランダ東インド会社は、イギリス東インド会社とは異なり、船を建造所有して船員の雇用も行い、国際貿易のほかに造船業、海運業も行う複合型の大企業だった。²³⁾垂直統合が進んだ組織であった。当時のオランダは造船業、海運業が発達しており、イギリスなど他国へ船舶を供給する側であった。他の東インド会社でもオランダ東インド会社のように垂直統合を進めるのが一般的で、イギリス東インド会社だけが例外であった。²⁴⁾

オランダ東インド会社はいわゆる専制型株式会社であった。オランダ東インド会社の目的はいうまでもなく東インド貿易の独占にあり、連邦議会から賦与された「特許状」に基づいて、東インド地域、つまり、喜望峰からマゼラン海峡に至る地域との貿易独占権と、当該地域における国家主権(同盟や条約を締結する権利や、軍事・警察・司法上の権限)の代行を容認された会社企業であった。オランダ東インド会社自体が、当時の「オランダ共和国」の政治的・経済的支配層(特にアムステルダムを中心とした都市の少数の大商業資本家門閥=都市貴族)と人的に密接に絡み合った、きわめて例外的かつ政治的な特権会社、いわば「国家内の国家」とでもいうべき存在だった。²⁵⁾

私貿易で私腹を肥やす事態が後を絶たたないことに手を焼いていた2回目の着任であった総督クーン(Jan Pieterszoon Coen)は、1625年当時の民主主義勢力の政治的潮流に沿って、本心とは異なり、自由貿易推進案を連邦議会に送るなどした。議会は可否を検討したが、結局、特許状によって設立されたオランダ東インド会社の趣旨と矛盾するという理由でこの案は破棄された。²⁶⁾

これは独占貿易から得られる一部の特権階級の経済的利益の保護を目的にしたことはもちろんだが、「オランダ東インド会社の経営の危機が叫ばれる時には、必ず独占貿易が問題にされ、自由貿易を望む声が常によみがえる」²⁷⁾ことから考えると、会社を変革させるための取引コストの大きさが改革を阻む不条理が存在した。

3 オランダ東インド会社の衰退

 17世紀においては,オランダがヨーロッパ最大の経済大国であった。オランダは各州の力が強く、地方分権的というより,むしろ分裂的な国家であった。さらに,国家の経済への介入も少なかった。しかし他国は,オランダに対抗するために,国家が大きく経済に介入し、程度の差はあれ、国家指導型の経済発展をした。オランダをふくめ、ヨーロッパの大半の国では国家財政のかなりの部分を軍事費が占めるようになった。そしてオランダ以外の国では中央集権化が進んだ。²⁸⁾他国が保護主義政策をとり、中央集権化を進めると、オランダの政治制度は時代にそぐわなくなっていった。

オランダの国力は18世紀になると低下する。原因として人口減少と漁業の衰退がある。漁業の衰退の背景には、イギリス、スコットランド、デンマーク、ノルウェーなど他のヨーロッパ諸国との競争激化があった。漁業の不振はこれと密接に結びついていたバルト海の木材貿易や、ポルトガル、フランスなどとの塩の取引などにもたちまち影響を及ぼし、漁業やその加工業にたずさわっていた多数の人々の生活を脅かした。²⁹⁾

「この傾向の原因および結果として、熟練した遠洋漁業に従事する者の急減があった。競争相手の漁業の経験に富むオランダ人漁夫を高給で引き抜いている事実もある。しかも、オランダにとって漁業は食料の確保だけではなく、遠洋航海のための人材養成の場でもあったから、漁夫の国外流出は取返しのつかない損失を意味していた。」³⁰⁾

漁業での立ち遅れと同じ現象は、造船技術でもはっきりと現れた。16世紀にはロシアからピョートル大帝みずから習いに来たオランダの造船術も、新しい技術を開発できなかったために、18世紀後半に入ると、イギリスなどの造船所に太刀打ちできないようになる。地図作製術などについても同様である。17世紀にはオランダ人の方がイギリス人よりも航海・貿易に自信を持ち、進取の気象にも富んでいたが、18世紀の後半になると、両者の立場は完全に逆転する。³¹⁾技術上の優位性が落ちるなかでは、オランダ東インド会社の組織的な垂直統合はむしろ競争力を弱める原因となったと思われる。

「オランダの商業資本家達が自国の産業や海運に投資しないで、イギリスやフランスに投資する例が18世紀後半には頻繁にみられる。」³²⁾オランダ東インド会社もこの間にアジアの地域間貿易に携わる船の数は大幅に減った。

一時期、「オランダ共和国」それ自体の政治改革と並行してオランダ東インド会社の会社機関にも主要出資者総会や監督を担う委員会の設置などある程度の「民主化」がはかられたこともあった。事なかれ主義が支配的であったオランダ東インド会社³³⁾で、1792年ファン・ホーヘンドルプ (C.S. W.van Hogendorp)により自由主義に基づく会社の改革案を出されたが、十分な効果をあげることなく事実上立ち消えとなり、結果的に取締役団による会社経営の専制的支配が維持され、1795年の「オランダ共和国」の崩壊と運命を共にする形で、1799年の解散の時を迎えた。³⁴⁾改革による取引コストの大きさから合理的に現状維持を判断した組織の不条理のため、市場化の環境変化に適応できず解散することとなった。