東アジア的経営組織論

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第5章 日本の風土が生む日本的経営

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タイの企業経営について検討してきたが、最後に日本の企業経営について検討してみたい。

 タイの代表的な企業であるCPグループも他の東南アジアの大企業同様、通貨危機直後は欧米メディアや投資家からクローニー経営などとさまざまな批判を受けたが、その後はそうした批判にもめげずに自らの強みを強化することで業績を急回復させた。CPグループの総帥タニンは、今ではアジアを代表する経営者として、欧米メディアに日本の経営者よりも高く評価されるまでになっている。

 欧米メディアの評価のいい加減さという問題もあるが、それ以上にやはりCPグループの経営方法が優れていたという評価を与えるのが正しいであろう。

タイ国的経営の形成過程とCPグループの挫折・復活のケースを踏まえ、日本的経営の形成過程を丹念に検討することで、日本企業が華人的経営から学ぶべき点を検討してみたい。

1)日本的経営の基礎構造

照葉樹林文化

照葉樹林とは、ヒマラヤの中腹あたりから東へ、ネパール、ブータン、アッサムの一部を通り、東南アジア北部山地、雲 南、貴州高地、長江流域、朝鮮半島南部を経て、西南日本に至る東アジアの温暖帯に沿って分布する常緑広葉樹林のことである。わが国では九州西部から秋田県 海岸部、岩手県南部を北限とする地域に分布している。 照葉樹林では、樹木の種類が硬葉樹林や落葉樹林にくらべて非常に多い。ドングリのなる植物、ブナ、ナラ、クヌギ、クリ、カシ、シイなどのブナ科の樹木が主力である(上山69頁)。

日本の照葉樹林は本場といえる。照葉樹林が一つの特色ある文化の発生母体になりうるほどの面積をしめているところは他の国にはない。例えば、大陸の東岸にある暖温帯という条件であたってみると、米国の東岸やアジア大陸の東岸あたりには、当然ひろい照葉樹林帯があっていいはずだが、実際には見当たらない。

北米の歴史はあたらしいので、白人がはいってくる以前の植生がかなりよくわかっているが、雨量が足りないため、ひろい照葉樹林がかつてあったという形跡はない。中国の揚子江流域は照葉樹林があってしかるべき場所だが、中国の平地は徹底的に原始的な自然が破壊されつくしたので、まったく手がかりがない(上山73-74頁)。

東アジアに連続する照葉樹林帯には、共通する文化要素が数多く継承されており、1966年中尾佐助氏によって「照葉 樹林文化」と命名された。その文化的要素の中ではとくに、アワ、ソバ、餅、オコワ、甘酒、茶、納豆、コンニャクなど、食文化に関するものが私たちの生活に 継承され親しまれている。照葉樹林は日本人の基層文化の一つを育んできたのである。

日本の風景美の美しさは、照葉樹林と豊かな森と、海に囲まれた火山列島であることと豊富な降水量という自然条件、さらに維持されたのは近代以前の日本人が風景の保護に努めてきたためなのである。日本列島の緑の美しさは自然そのままのものではない。数千年にわたってこの島に生きてきた人々の日々の営みが作り出した歴史的な遺産であった(鬼頭119頁)。こうした自然条件が日本人への思想、生き方に影響を与えつづけているのは間違いない。

災害列島

日本は豊かな自然を持つ反面、自然的、地理的な条件から自然災害が多い。日本的経営の形成の基盤となった江戸期を例にあげると、江戸期は小氷期とよばれる地球的規模の気候寒冷化の時代であったが、その被害が顕著になったのは、寒冷化の第二ピークとなった宝暦・天明(1780年代)・天保期を中心とする18世紀中期から19世紀中期のほぼ1世紀であった。

江戸時代の特徴は土地に物的生産の基礎を置く社会であったこと、耕地や森林など土地の生産物が人々の日常生活を支え、風や水という自然力に依存する社会であった。そのため稲作を基礎とする農業社会にとって問題となるのは、冬の寒さと降雪よりも冷夏や長雨による日照不足と低温であり、それがもたらす飢饉であった。ただ凶作には同じ地方であっても地形などの違いから、地域差があった。

さらに社会的な要因として、日頃の備えが飢餓の有無を左右するという現代的な要因や、隣接地域、例えば隣の藩からの救済措置が取られなかったというような江戸時代特有の要因もあった。

都市化が進み、人口が密集するにともない、地震や火事などの被害が大きくなる。これは現代にも通じることで、江戸時代においても人口増加と耕地開発により生活圏が拡大したことが災害による被害規模が拡大した。

江戸時代は階級社会であった。人口現象も階級社会の影響を大きく受けた。多くの農村で上層農民は下層農民より、女性のどの年齢階層でも出生率は高かった。階層間格差によって、上層農民では早婚と多産によって家の存在が確実に行われ、さらに分家を出したり、養子に出すことでその家系を拡大することができたのに対して、下層農民ではしばしば家を継ぐ子供を確保することに失敗して絶家となって家系が消滅することも珍しくなかった。減少した下層人口を上層から下降した家族が埋め合わせたのである。出生力の階層間格差は結果的に農民層の分解を阻止して、農村社会の安定を保つ機能を果たした(鬼頭59頁)。

日本社会の特徴として、農家の世帯は直系家族制をとることを規範とする制度であったから、少なくとも跡継ぎ要員と目される子供はーしばしばそれは長男であるがーどれくらい賃金を得られるかとは無関係に、婚期が決定される傾向にあった。跡継ぎ要員は土地と屋敷を親から自動的にそっくり継承することがきまっているから、結婚のタイミングを決めるのは、確実に子孫を残すために何人の子供を産まなければならないか、という人口学的要因のほうが重要であった(鬼頭187頁)。

全国的な人口は1600年頃で1500万人、1720年頃には3200万人と寒冷化は17世紀から起きていたにもかかわらず人口は成長を続けた。しかし18世紀になると一転して減少に転じる。それは18世紀が寒冷化の極であったうえに、3000万人を超えた人口が、日本列島の収容力の限界に近づいていたことが要因であろう。事実、1870年頃でも3300万人と1720年以降150年間はほぼ横ばいであった。経済発展による過度な開発の結果、列島は気候変動を吸収するだけの余力を失っていたのである。

木と鉄の文化

照葉樹林文化にみられるように照葉樹林の育む極めて豊かな森林資源や、豊かな海に囲まれて、農業だけではなく漁業や林業など日本には多くの生業が営まれ、それを江戸時代までは「百姓」と総称された。

江戸時代までの「百姓」はけっして農民だけでなく、商人、船持、鍛冶、大工などきわめて多様な生業を営む人々が含まれていた。儒学の影響を受けた官僚の多い明治政府において「百姓=農民」が制度化されたのである。人口の80~90パーセントを占めるとされた「百姓=農民」のうち実は約40パーセントは農業以外の生業に携わる人々であった(網野294頁)。

富山県桜町遺跡から木材を精密に加工し組み合わせた、のちの法隆寺の建築にも用いられたという高度な技法のあったことを証明する縄文時代の建築部材が発見された。これは、縄文時代の人々がこれまで予想されていなかった高度な建築技法を身につけ、住居の樹木による建築がふつうの人々によって日常的に行われていたことを示唆していた。どれほど日本人が樹木に大きく依存して生活してきたのかを再認識する発見であった。

現在でも「日用大工」がふつうのひとびとの生活に広く浸透し、また、最近まで小学校から高校までの教科の中に大工の工作がくみこまれていたように、いまも日本の社会の中に生きつづけている。神業といわれるほど日本の建築職人の技術は、こうした百姓的な建築技術の広い基盤に支えられて開花したものと考えられる(網野304頁)。

 15世紀になると木曽・飛騨の山は東西の大寺院の造営に用材を供給する木材の大産地となっているが、14世紀以降、列島各地に都市が発達するようになるとともに、家屋、自社の建築も活発化し、材木に対する需要も急増、河川を流される木材も著しく増加した。都市の発達とともに、各地の山々で、林業が巨大な産業として発展を遂げていった。そして木材の輸送路としての河川を通じて、こうした山々は海と不可分の結び付きを持ち、自らを広い世界に向けてひらいていた。実際、木材は列島から大陸に、平安時代後期からさかんに輸出されていたのである(網野315頁)。

多くの農民が従事した稲作は高度な土木技術と水利技術が要求される高度な農業形態である。寒冷地域の多い日本で恒常的に生産するには技術面からの支えが必要であった。それが製鉄技術、鉄の加工技術であった。日本列島に稲作が普及していくには鉄の技術が必要であったのである(石井33頁)。

 中世までは日本の製鉄はまだ原始的な小規模分散的生産の段階にとどまっていたが、室町時代になると、急激に、とりわけ中国山地で進歩をとげる。製鉄の過程で幻聴の砂鉄を溶解・還元させるためには大量の木炭が必要になるが、この地域は良質な砂鉄を生産するだけでなく、木材資源にも恵まれていた。古くから「たたら製鉄」技術が行われていたが、室町時代ころには、それが技術的に成熟するとともに、砂鉄の採取方法でも「鉄穴(かんな)流し」という技術革新が進んでいた。「たたら製鉄」や「鉄穴流し」は海外ではほとんど見られない製鉄技術である。日本の鉄文化は単なる移入文化の域を超え、独自の展開を見せるようになった。

 加工技術で独自展開したのは中世の刀剣の鍛造である。日本刀は鍛造技術の結晶とも言えるものだが、刀剣技術がほぼ完成したのは鎌倉から室町時代にかけてであった。とくに、室町幕府は、明との貿易で刀剣を主な輸出品とし、莫大な利益を上げた。この時期、日本は世界的な武器輸出国だったのである(石井36頁)。

 明治期、近代製鉄が日本に本格導入されてからわずか100年で日本の製鉄技術は世界一なったが、こうした背景には日本で古代から培われてきた製鉄や加工の技術、そして導入された技術に改良を加える創意工夫の積み重ねがあったことは否定できない(石井39頁)。

さらに、こうした技術の発展の背景には、明治維新に先立つおよそ300年に近い平和という大きな要因があった。こんなに長く継続した平和は世界の歴史上に例がない。室町幕府以降の内戦のために混乱した社会で滞りがちであった、学問、英術、工芸、商業、産業すべての部門にわたる文化的経済的な遅れを江戸期に取り戻すことができた。鉱山開発や新田作りのための土木技術などさまざな技術が盛んになったが、それらすべては江戸時代において限界に達し、さらなる新段階に飛躍するにはなにか新しい刺激が必要になっていた。その刺激とはヨーロッパ文化に他ならなかったことは当時の知識人たちは気付いていた(宮崎483頁)。

日本の宗教観

東北アジアの近・現代国家をみると個人の上に、血縁共同体が依然として生き残っている。日本では、近代化と称して、特に第2次世界大戦後、地縁・血縁共同体を可能な限りつぶして個人主義化を図ってきた。しかしついにそれを貫徹できず、地縁共同体はほぼ崩壊したものの、血縁共同体はまだ存在している。この共同体を成り立たせているの理論が儒教である。

日本における儒教は、宗教性を持つ儒教であるより礼教性の強い儒学への方向をはらんでいた。それが最も強くでるのが江戸時代で、キリスト教を禁じる目的の檀家制度により寺院が葬式を一手に握ってからは、一層その傾向を強めることとなった。

もともと中国における儒教には祖霊信仰や祖先崇拝というような宗教性が含まれていた。しかし、日本においては、仏教が日本での祖先の祭祀や葬儀に食い込むために、輪廻転生の思想とは無関係な祖霊信仰や祖先崇拝を取りこむ中で、儒教の宗教性は失われて礼教性が強調されることとなった。

日本人の宗教観は雑種といわれるが、たしかに西洋のキリスト論、中国の儒教に当たるようなはっきりした形の道徳の伝統がないのが特徴である。古代からの神道、古代から中世に広まった仏教、近世の儒教、近代からは西洋の道徳観がゴチャマゼ(湯浅 47頁)となったのが日本的宗教観といえる。いいかえれば、古代からの神道という土台の上に、中世には中国で広まっていた仏教を載せ、時代が変わって近世になれば儒教を載せ、近代になったら西洋に追いつくためにキリスト教をさらに載せたというようなものであった。

 江戸時代に浸透した士農工商も儒教から確立された身分制度であるが、中国における「士」とは科挙試験に合格した文官である士大夫のことであった。しかし日本では鎌倉時代から江戸時代にかけて政権を握った武士階級、武官であった。この武官である武士階級が中国で文官向きの儒教的教養を身につけることになったのである。

 一方の中国では、隋になって587年に試験制の科挙制がしかれて以後、1905年に至るまで1300年間それが続いた。試験の基準となるものの中心が儒教であった。儒教は漢代以後、科挙廃止に至るまで、官僚の教養として必須のものとなった。中国では儒教的教養を身につけた文官(特に科挙出身者)が登場し、中国社会を動かした。それが伝統となってゆくのである。

日本の武士階級の儒教は中国の儒教とは変質し、例えば儒教の宗教性を支える「孝」(親しい者への愛)よりも「忠」を重視するという傾向が生じる。

中国では親子間の自然な関係である「孝」が道徳の本源的なものであり、他人との関係においえ成立する「忠」は「孝」の派生概念であるとされた。親に不孝な人物は国に不忠な存在になるという論理である。

日本では「孝」はどちらかというと私の世界の事柄であり、公の世界での忠が優先されるという観念が発達した。戦国時代には主君を裏切ることも珍しくなかったが、江戸時代には武士の主従関係にもとづく全国的統治組織が確立し、それが世襲されるようになると、以前にもまして忠が強調された。

公にたいする「忠」を私の上位におく精神風土は高度成長期を通じて継承された。

江戸時代を通じて儒教的教養により培われた武士階級の倫理性は武士道という形で開花する。武士でありキリスト教に改宗した新渡戸稲造は、武士道をプロテスタンティズムの禁欲精神と同等と考えた。武士道というのは無論宗教とは呼べないが、江戸時代の日本社会で武士階級のみならず、士農工商すべての階級において一つの道徳的価値を保ったものであった。かつての武士であり、キリスト教者でもあった新渡戸は、武士道という極めて日本的な価値観のなかに、キリスト教のみならず全人類に通じる普遍的道徳性を見出したのであった。

この武士道は決して武士階級だけではなく、商人階級や職人階級など江戸時代の一般的な倫理性を表すものだったのである。

家制度

先ほど儒教が東アジア的共同体を支える倫理としての役割について述べたが、東アジアの中でも地域により共同体、つまり家のあり方が異なる。中国人は家を徹底的に血族の集団とするのに対して、日本人は家を機能的な経営体と考える。例えば、時としては家に異姓の養子を取り、その養子に異姓の妻を迎えたりして、血が断絶しても平気なのに、家の存続には懸命となった。

儒教の「士」の認識同様、日本の家は血縁原理が優先する中国や朝鮮半島の家族とは全く異質なのである。こうした違いは、鎌倉幕府以降、日本が武の原理にもとづく封建制を発達させたことの反映と見るべきであろう。

家の組織体の違いは、家財産の相続方法の違いも生むことになる。武士の経済的基盤は主君からあたえられた土地を経営することによる収入である。土地の分割相続を認め、家臣の財産を細分化させたら、武力が弱体化することになってしまう。室町時代頃から、武士のあいだでは長男が家督相続することが多く行われるようになり、江戸時代中期にはルールとして確立した。

儒教では父系親族集団の原理が強く働くため、中国の家族関係は日本と同じように権威主義的ではあるが、相続については日本と比較して中国ではむしろ平等的である。日本のように長男がすべて相続することはなく、中国では子供に平等的に相続された。

 さらに明治時代になると武士の家の慣習や道徳をもとに明治民法が制定され、日本社会が父系的原理で覆われた。しかし、こうした父系的原理も、家単位での家業がなくなり、日本社会における経営体としての家の機能が弱体化する課程で徐々に存在感が薄れていった。

 現在では、農業など家単位で労働に従事する家業がなくなることで、日本社会における家は経営体としての機能が弱体化していった。また、子供は父親と別の職業につくのがあたりまえとなり、職業教師としての父親の役割はなくなった。教育も学校に依存するようになり、家族の指揮官である家長としての父親の存在感が薄れ、それに伴って父親の権威が失墜していった。

中国や朝鮮半島では未だに父親としての権威は保たれている。それは強固な血縁原理にもとづく父系家族集団の代表として歴史的に形成された父親像や孝の観念にささえられた父親像が確立した社会と、日本社会との違いがある。

2)日本的経営が生まれるまで

江戸期の市場化

江戸時代はそれ以前の社会と比べて市場の役割が格段に大きくなった時代であった。江戸時代の幕藩制とその基盤となる米による年貢制度そのものが、初めから地域間の経済機能の相違に基づいて、商品と貨幣の流通すなわち一定の市場経済の展開を前提としていたのである。

米納年貢は、販売する市場の存在を前提としてはじめて可能なシステムであった。また、士農工商の身分制度のなかで、武士、商人、職人は都市に、そして農民は村落と分住することとなり、これらの諸社会集団の間で、恒常的な商品と貨幣の交換が必要とされたのである。

特に江戸は巨大な武士人口を抱えて、その需要をみたす必要から巨大な消費市場となった。また、大阪、京都、奈良などの機内諸都市は伝統的な高度な生産技術と全国の物資を集散する中央市場の機能を備えた。こうした大都市と農村とを結ぶ流通経路と商品を売買するための市場の形成が進んだ。

江戸時代の当初、物資は江戸、大阪、その他城下町を経由して流通していたが、市場経済の浸透とともに、物資の流通経路は大阪、江戸、城下町を経ずに、産地と消費地が直接結びつく例が多くなっていった。その結果、江戸時代中期以降、都市の成長に異変が生じた。都市人口は江戸時代前半に大きく増加したが、後半には減少した。農村人口は一貫して増加しており、増加率は都市人口を上回った。江戸時代後半は地方の時代となったのである。

市場経済化が進行して、財貨と貨幣が全国的なネットワークを作っていくと、そこには競争を通じて経済的なチャンスが生じる。経済成長の時代である17世紀は江戸時代の庶民のなかには、才覚と倹約と勤勉によって財産を築き富裕になった多数の人々が生まれた時代であった(鬼頭253頁)。

さらに18世紀は人口・耕地面積・石高といった数量的な指標でみても、米価からみても、一見、停滞的な時代であったかのようにみえる。しかし、経済循環構造や生産構造といった側面に注目すれば、19世紀の発展を用意するような変化を準備していたのである。それは民間経済の奥深く市場経済が浸透していくことと、非農業的な発展にはずみがついたということであった(鬼頭242頁)。

経済思想

江戸時代、儒教では士農工商のうち農こそが基本的な職業であり商工は末業にすぎないとしていたが、先ほど述べたように市場経済の進展とともに、17世紀末の元禄期ころから商業活動と富の蓄積を正面から肯定する発想が強まってきた(石井70頁)。

現代では、商人、および商業活動に対する社会的な偏見はないが、これはきわめて近代的な思想である。古代、中国やヨーロッパ社会では商人活動について、国家権力ないしは宗教が批判的であった。

 中国では秦・漢の時代(前221-後220)になると商人活動が盛んになるが、商人の身分は一般人民よりも一段と低いものとされ、商人は絹布を身につけることや馬に乗ることを禁じられ、重い税を課せられた。儒教は四民(士農工商)のなかで商人をとくに低く評価しており、宋代(960-1279)から明代(1368-1644)にかけての商人勢力の増大を背景に、王陽明(1472-1528)の「四民は業を異にして道を同じくする」という主張でも賤商観は基本的に変わらなかった。

 ヨーロッパ文明の源流のひとつであるギリシア文化は商業を蔑視し、哲学者アリストテレスは蓄財の術としての農業や牧畜は奨励したが、商業は他社の犠牲において利潤を得る邪道だとして攻撃した。中世のキリスト教の教父たちも「商業は他者を欺くことなしにはほとんどおこなわれえないから、霊魂救済に危険なもの」(ヒエロニムス)とういう具合に商業活動を非難した(石井8頁)。

むしろインドやイスラム社会では古代から商人活動に対して基本的に肯定的であった。中世キリスト教世界とは異なり、イスラム教の聖典コーランでは、商業はまったく批難の対象になっていないのである。

 石田梅岩(1685-1744)は1729年から京都で町人の生きる道を説き始め、商人の得る利潤を武士がもらう俸禄のようなもので、町人も武士も職分としては同格であること、武士は武士の生きる道があるように、町人には町人道があることを説いた。つまり、士農工商の別を認めながら、それを「身分の上下」としてでなく「職分の相違」として位置づけなおした。

石田梅岩は、農家に生まれ、商家に奉公した市井の学者であっただけに、非農業活動を正当に評価した。そして商人階級の幕藩体制の枠内における利潤追求活動には、それなりの倫理が備わっているべきであるとして、商業道徳(石門心学)を唱道した。石門心学の基礎には梅岩の人間に対する信頼が横たわっており、また自己鍛錬によって主体性を確立した自分の経験があった。

梅岩のような経済思想が流行した背景には教育の普及があった。17世紀から18世紀初頭にかけて京都・大阪で寺子屋が多く開設されだし、19世紀には日本全体が教育ブームとなった。寺子屋では70%は読み書きと習字のみを行い、25%がこれに算術を加えた。残り5%が和学・漢学などより高度な学習を取りこんでいた。それでも商売に必要なそろばんを使用する計算術、実用的な文章の読み書き能力を身につけるうえで効果があった(鬼頭306頁)。

江戸期の家制度

江戸時代は市場化が進んだ時代であった。市場の拡大は多くの都市を生むことになったが、農民社会にも影響を与えた。江戸期の社会システムを特徴付けるもうひとつの側面が家制度である。これは武士社会の中では早くから生まれて定着していたが、農民社会へも広く拡大していくのがこの時代であった。武士の家制度が、江戸時代になると市場経済の発達とともに商家や農家へ波及したのである。

農村の経営単位として「直系家族制」とよばれる形態が一般化したのも、市場経済との接触が深まり、土地利用の面でより効率的な経営が求められたときに最適な形態として定着した(鬼頭121頁)。直系家族制の定着とともに、その後の企業経営に大きな影響をあたえる日本的規範となったのである。

大多数の国民が農業に従事していた江戸時代の農業生活では、家族そろって野良仕事に従事していた。商人や職人の家庭でも、一家そろって家業に従事するのが一般的であった。家族が生業の単位として機能し、生産と消費をめぐる多くの仕事が家単位に完結する社会であった。

家という共同体を組織としてとらえるのと同様に、日本人の場合は企業という共同体を家の変形としての組織とらえる傾向がある。中国人の場合、家を血族の共同体として捉えるため、経営者は企業も組織というより、自分が密接にかかわるもの、血の流れているものという感覚から抜けきれないことが多いようである。その結果、日本人の企業は異姓の者をどんどん取り入れて組織として巨大化したが、中国人の企業は現在でも血でつながる一族経営が中心となっている。

江戸時代の商家経営

江戸時代には、商業経営は他の職業と同じく、家業としていとなまれていた。家業とはいうまでもなく、日本的な家制度によって裏付けられていた。家はひとつの経営体であり、存続と発展がその基本原理となっていた。家とその構成員との関係では、家がつねに優位にたっていた。

商家経営での家は、婚姻によって成立する生活共同の集団である家とは異なり、家業を中心とした経営体であった。奉公人をたんなる使用人としてでなく、家の構成員として、家長との親子関係のもとにおき、実の親子に準じた待遇を与えたところにわが国の家業経営の特徴があった。そしてそうした親子関係があったからこそ、奉公人に主家の繁栄を願う高い帰属意識に裏付けられた、献身的奉仕が期待できたのである(間30頁)。

 本家を中心とし、その分家や別家がそれぞれ一応独立の家業経営をいとなみながらも、同じのれんを守り、助け合いながら存続していく集団、これが商家の同属集団である。のれんが集団のシンボルなのである。

商売繁盛、子孫繁栄という家業観念のなかに江戸商人の最大の価値が見出されるのである。祖先から伝えられた家産をすこしでも増やして、子孫にうけついでいこうとしたところに江戸商人の資本蓄積の原動力があった。日本的な祖先崇拝の観念、そして家の観念は、近代日本における資本主義の強力な支柱の役割をはたしたのである。

3)日本的経営の誕生

経営家族主義の発生の背景

日本の近代企業は、商家の同族経営を模倣しながら、日本社会の基盤をなしていた家の観念を拡張解釈し、家の擬制としての日本的な経営管理制度を作り上げた。これが現在の日本的経営の前提となる「経営家族主義」と呼ばれる経営管理制度である。商家経営、とくにその同族経営が、近代企業における日本的経営のモデルとして大きな役割をはたした。これを擬制的同族経営と呼ぶことにする。

経営家族主義は同族経営と同一の構成原理のものではない。同族経営には家の関係が含まれていたが、経営家族主義においては、資本家・経営者と大多数の一般従業員との関係は、実の親子関係でむずばれていたわけではない。ただ、日本における資本主義下での企業発展の過程で、経営管理上の要請、とくに従業員の帰属意識を高める必要から、家族経営、同族経営がそのモデルとしてとりあげられ、その擬制として、新たな経営者と従業員との関係がつくりあげられた。

経営者と従業員とが、親子のような温かい気持で互いに助けあおうという考え方、あるいはそのようなムードに裏付けられた諸施策であって、実際に親子関係を構成原理としていたわけではない。

 実際に経営家族主義が広く普及したのは第一次大戦の時期であった。その経営制度には、年功制賃金、家族制度的生活給、終身雇用、結婚祝金や出産祝金、社宅などの福利厚生制度といった極めて現在の日本的経営の特徴といえるものを多分に含んでいた。経営家族主義の特徴としては、欧米のように金銭によって結ばれた契約的労使関係とは異なり、資本家・経営者と従業員の関係を親子になぞらえ、両者の利害は対立するものではなく一致するものとした家族主義的イデオロギーに支えられた労使一体論にあった。

日本社会の基盤をなしていた家の観念を拡張解釈し、家の擬制としての経営管理制度を作り上げた経営家族主義は当時としては、スマートな経営者のつくったスマートな経営施策であった。

経営家族主義形成の背景

経営家族主義が成立した背景には、日本社会の内部変化だけではなく、世界情勢の変化もあった。 

大正から昭和初年にかけては日露戦争で飛躍的発展をとげた日本経済が第一次世界大戦を経て、世界の一等国の地位にまで到達した時期であった。第一次世界大戦後、日本は一等国の地位にのし上がったが、諸外国の厳しい批判の対象となった。日露戦争まではアジアの盟邦として好意をよせ、その発展に力をかしてきた米英も、日本が植民地獲得、帝国主義段階にふみだすになってからは利害が完全に対立し、自国の脅威として敵視政策をとるようになった。

大戦後の世界恐慌、昭和の金融恐慌をへて、日本内部では企業の再編成を行いつつ、大企業が独占化を進めていった。再編成の動きのなかでは、財閥独占企業が完全にその支配的地位を確立していったのである。

不況の時期にあたって、さらに生活不安と失業、賃金切り下げが直接的な原因となって、労働運動が盛んになった。普通選挙運動とも結びつき、社会風潮もいわゆる大正デモクラシーを反映して、労働運動に好意的であった。

 こうした状況下で、企業経営では労使の対立など非常に厳しい状況が続いた。ここではさまざまな理由が考えられる。企業の所在地のせまい範囲から、しかも縁故募集で従業員が集められていた時代には、労使間には、雇用関係以外に地域的連帯性があったが、企業規模の拡大にともなって、労使の地域的連帯性が消滅していった。また、経営規模の拡大と同時に、職務の専門化も進み、教育制度の普及とあいまって、現場の労働体験をもたない、学校出の資本家・経営者がふえてきた。彼らの場合、労働者についての理解に乏しく、労働者からの信頼感も薄かった。労使の社会的距離の拡大という点では、両者の生活経験の差が開いてきたのである。

 また、企業経営には多くの制約や圧力が加えられるようになった。工場法や、健康保険法、退職手当法など一連の労働者保護法が相次いで制定・公布された。それまで温情主義的に行なわれていた労働者への救済や退職手当などが法制化され、企業経営者に義務付けられたため、それらはもはや従業員からは企業経営者による恩恵的なものとは考えられなくなった。それらが恩恵であったことにより、従業員の経営帰属意識の培養に役立っていたため、それらの質的変化にともなって、それらに代わるべき新しい施策を打ち出す必要性が、企業経営者に生まれた。この時代に生まれたのが擬制的同族経営としての経営家族主義である。

経営家族主義の成立には、企業経営者の側の世代交代という側面も大きく影響を与えた。

また少年期、青年期を封建社会のなかで儒教道徳を中心に育った維新前派と、明治維新以後、封建社会の名残を多くとどめながらもなおかつ欧米の文化の息に触れる機会を多く持って育った維新後派の世代とでは、そこに大きな断層があった。

明治末期から昭和初期に新しい日本的経営、すなわち経営家族主義を生み出したのは、維新後派第二期の人々であった。彼らは、たびたびの外遊によって欧米の文物制度に通暁していた。それにも関わらず、こうした新しい経営者も、それまでの企業経営者同様、財閥を形成したのである。

新しい企業経営者たちも財閥というきわめて日本的な企業の中核をつくりあげたが、この財閥は家あるいは、華人的経営とは異なる日本的な同族的経営につながることはいうまでもない。彼らの持っていた豊かな欧米諸国の知識にかかわらず、その行動においてはわが国の伝統的な家の制度はいささかの矛盾も感じることなく、それのうえに企業経営を成り立たせたのである。

以上述べてきた企業内外の諸条件の著しい変革のなかで、第二次大戦前の日本的経営の代表的なタイプである経営家族主義は形成された。温情主義の伝統を汲みつつ、それを個人的・断片的な措置から、組織的・総合的管理施策へと転換を図ったところに特徴がある。

それは一等国になったとはいえ、資源や市場に恵まれない、脆弱な経済基盤の上にうちたてられた日本企業が、組織の巨大化、あるいは機械化・直傭化の進展にともなう組織統合の要請、労働運動の挑戦、国際的・国内的な政治および世論の圧力といった難問に答えて出した解答だったのである。

経営家族主義と日本的経営

 経営家族主義は、第二次大戦後の米国による占領統治と民主主義の考え方が広まることにより、徐々にその存続基盤を失っていった。

従来の身分的な上下観念にもとづく経営者の温情主義は、労働者はもはや憐れむべき存在ではなく、あくまでも経営者と対等の人格として扱われるべきことが法律的に認められたことでその存続基盤を失っていった。また、経営家族主義の背景にあった家族主義イデオロギーそのものが、戦後の価値観の変革によって封建的であるとして否定された。

労務政策も民主主義にもとづいて出発しなければならないことが、戦前と戦後の最も大きな相違であった。戦後の場合、労働組合の活動が、戦前と違って経営施策とくに労務施策の内容にまでさまざまな影響を及ぼした。

経営側も企業の再建期において、労使関係で経営者がイニシアティブを奪還して経営権を確立するために、大量の人員整理を断行していった。経営者自身により終身雇用を軸とした経営家族主義が実質的に崩されていったのである。

完全に消滅されるかと思われた戦前の経営家族主義であるが、経営自主権が回復されて以後は、戦後導入された米国的経営技法にいわゆる日本的修正が加えられ、経営家族主義の復旧の作業が続けられた。そして、外見的には戦後のいわゆる日本的経営といわれる管理制度は、経営家族主義と大差ないような管理体系となっていった。 

多くの企業では労使協力の方向を労使協調論のうえにたって企業の繁栄、従業員の生活向上、そして社会への奉仕に求めているのが、戦後の日本的経営の特徴といえる。

戦前の経営家族主義にせよ、戦後の日本的経営にせよ、全人的管理にあらわれているように、江戸期の商家経営から脈々と続く労使の人間的結合の強さが、日本の企業経営の歴史的伝統であったといえる。そのことが、相対的な労働条件の低さにもかかわらず高い企業意識とモラルを維持できた重要な要因であった。

4)華人的経営からの教訓

日本的経営の形成過程を風土、歴史の両面から検討してきたが、ここで華人的経営との比較により、日本的経営が学ぶべき点を検討してみたい。

すでに述べたように華人の企業経営の特徴としては、所有構造としては、所有と経営が分化されておらず、トップマネジメントが家族・同族で占められるという傾向がある(丹野53頁)。閉鎖的で情報公開も不十分ともとられがちな、同族支配体制は一方で意思決定の迅速化をはかることができ、外部からの敵対的な買収なども守ることができるという、大きな長所をもつのである。

日本的経営の特徴であった擬制的同族経営で求められる経営者像は、トップダウン型の意思決定組織における監督型トップというよりも、ボトムアップ型の意思決定組織での調整型トップであった。当然、調整型は意思決定には時間がかかる欠点がある。一方で、意思決定までに社内の調整が終わるから、意思決定後の組織運営にはスピードはある。

華人企業についていえば、特にアジアのような変化が激しく、不確実性が高く、リスクが高い経営環境の中では、敏速に意思決定がされるという点で強み(丹野164頁)であり、合理性があった。

日本でも敵対的な買収が頻繁に起こり、市場の変化の早い現在の企業経営を取り巻く環境では、こうした同族経営のもつ特徴は、大きな長所にみえる。企業の所有形態は簡単には変えることは不可能であるが、経営者の管理形態は学ぶ点が多いといえる。

タイの組織で経営者に求められる資質として温情的独裁があると述べた。これはタイでの社会が生み出したものであるが、これも一つのヒントになるかもしれない。専制的独裁でもなく、調整型でもなくその中間的な形態ともいえる。日本企業においてもタイ的な温情型独裁、温情型監督者としてのトップが理想的な経営者像といえるかもしれない。

華人企業の中にも、同族中心の経営者、資本から所有と経営の分離への道に進みつつある企業も一部見られる。アジアの華人財閥では、持ち株会社によりグループ企業を統制・管理するというケースも増えている。4章でみたCPは、創業者一族が所有する家族投資会社、あるいは持ち株会社や事業会社兼持ち株会社を活用したファミリービジネスの支配という構図となっている。

また華人的経営の特徴として、人的ネットワークが非常に強く、本国のみならず海外での人的ネットワークを有効に活用した形での資本参加、調達、生産、販売等の協力・協調関係を構築している点がある。華人企業はこうした背景から国際的志向が強く、一般的に、グローバルな視点が強い(丹野164頁)。

その点日本企業は、日本の市場がアジアの中でもスバ抜けて大きいこともあり、日本市場での競争に明け暮れ、グローバルな展開は後回しになっているのが実情であろう。日本の造船業、電機産業、自動車産業の歴史をみてもそれはいえるし、近年急速に成長しているユニクロや楽天などのケースを見ても同様である。言葉のハンディキャップも影響しているのかもしれない。

華人企業は、技術的に遅れをとる分野では、自社技術にとらわれず、日本や欧米企業といった先進諸国企業を中心とした外国企業との戦略的提携の積極的活用して、グローバル市場に積極的に進出するのも特徴である。海外市場はネットワークを駆使して開拓する。そして海外進出の過程で、積極的な新事業への事業展開、国際化戦略、外国企業との戦略的提携等を通じて、経営・組織のイノベーションを行う(丹野164頁)。この点は日本企業も見習う必要があるであろう。

CPなどタイの華人企業は、通貨危機後、欧米の投資家などから通貨危機の原因が、財閥企業の情報の不透明さにあり、東南アジアの資本主義はクローニーキャピタリズムであるとさんざんに批判されたにもかかわらず、その同族経営の基本は変えずに、むしろ同族経営のもつダイナミズムを強みとして中核事業への特化を迅速に行ない、早期に業績を回復させた。さらに業績回復後の積極的な中国再進出には目を見張るものがある。日本的経営にはない、タイの華人的経営のダイナミズムをいかんなく発揮しているといえる。

マレーシアのマハティール前首相やタイのタクシン現首相の言動や、タイのマスコミの論調をみていても、先進国、特に米国の主張する経営システムを、文字どおりに受け入れることはない。世界的な流れとして受け入れる方向ではあるが、常に懐疑心を持ちながらの受け入れといった方がよい。

そこにはさまざまな理由があると思われるが、グローバルスタンダードという名の米国など先進国の流儀の押し付けに対する対抗心と、自らの歴史的制度、文化などへの自尊心が多いに影響しているものと思われる。それは企業経営についても同じであろう。

東南アジア諸国は欧米列強、日本などの植民地支配から独立してきたとう歴史を持つ(タイは唯一独立を守った)から、日本などの先進国のいうことをそのまま真に受けることはないのかもしれない。

日本企業もたなぼたのような経済環境があったにせよ、個々の企業努力なしには世界的に成功することは出来なかったのも事実である。世界的に成功できた理由を良く振り返り、成功を支えた経営システムに磨きをかけることが必要であろう。自らの経営の成り立ちをよく認識し、その特徴を把握した上で、経営をするように努めるべきであろう。

5)日本的経営の再構築

安田喜憲は「風土も歴史を決定する」(安田43頁)と述べたが、企業経営においても同様に、企業が生まれ育った風土が経営を決定するといえるであろう。京都モデルが顕著な例であるが、企業は自らが創業され、育った土地の風土によって企業文化を育てる。

 日本的経営は日本の風土の上に築かれた経営方式であり、日本経済が成功を収めたのは何よりも、日本文化に基づいて経営システムを築き上げたことによる。アベグレンが指摘したとおり、日本企業は単純な経済組織ではなく、複雑な社会経済組織であり、今後も日本文化に特有の価値観を基盤にしていくだろう(アベ19頁)。この基盤からはなられる動きをとる際には、リスクがきわめて高いことを覚悟しなければならない(アベ23頁)。

 他の経営システムと比較したときに日本の経営システムを特徴づけているのは、人間に係わる部分であり、日本企業の文化はこの部分に基づいているからである。日本企業は何よりも社会組織といえる。企業を組織する人間が経営システムの中心に位置している。会社という共同体を構成しているのは社員なのだ(アベ27頁)。

 こうした背景から日本の経営者たちは擬制的同族経営を形成するなかで、終身雇用や年功序列などさまざまなシステムを生み出した。

しかし、高度成長期が終わり、円高、経済自由化に伴うグローバリズムの流れなかで、日本的経営を支えたさまざまな仕組みの維持が困難になった。バブル崩壊によって自信を失った日本企業の多くは、バブル期同様に、マスコミなどが叫ぶグロバーバルスタンダードという妄想に踊らされ、競い合うように、株式市場が評価すると持て囃した、短期的な米国的企業統治を取り入れた。

 こうした傾向も結局のところ幻想だったことがあきらかであろう。ソニーの凋落が端的な例である。一方でひたむきに擬制的同族経営としての日本的経営の改善に努めたトヨタやキャノン、京都企業が好業績を持続している。

 これからの日本的経営を考える場合、我々は日本の内外を問わず、好業績をあげる同族企業の経営を見直すべきではないだろうか。トヨタやキャノンはもちろん、京都モデルでものべた企業群もそうであるし、タイのCP、そして同族企業など存在しないとも思われるような米国でさえ、米国の偉大な企業の多くは、日本企業に良く似た方法で経営されており、家族に似た構造をもち、長期にわたる継続性を大切にしている(アベ223頁)のである。

倉科敏材はファミリー企業(同族企業)は非ファミリー企業とを比較した場合、ファミリー企業のほうが業績が良く、効率的に企業運営されているとのべている(倉科28頁)

同族企業の好業績の理由として、華人的経営同様に、まずトップリーダーの意思決定の迅速さがあげられる。また大企業になっても創業時の中小企業レベルでのDNAが刷り込れ、企業家精神が発揮される点や、次世代に富と資産を引き継ぐためにファミリーメンバーの規範と責任意識が高い点をあげる。

また短期的な収益よりも長期的な戦略を重視し、商品やサービスの品質に対する思い入れやこだわりが強いという点も特徴として挙げられる(倉科33頁)。

CPの事例をみると、CPはまさしく同族企業の経営の特徴と経営上の強さをもつ企業である。CPは欧米投資家からの圧力にも係わらず、自らの強みをより強化することで危機を乗り切った。

日本企業もこうした経営姿勢に学ぶ点がある。日本企業は、日本社会の基盤をなしていた家という共同体を基礎に、擬制的同族経営を形成してきた。これは日本の風土が歴史的に生んだ経営システムといえる。日本的経営の強さはこの擬制的同族経営にあることを忘れずに、強化することがむしろ重要である。

 米国にも多くの優秀な同族企業が存在し、専門経営者企業を超える業績を残しているのである。こうした企業には共通する特徴があると指摘される。米国の同族企業の好業績とその理由についてミラーはいくつか理由を挙げているが、その中でも「継続性」と「会社の擬人化」は擬制的同族経営に基づく日本的経営が持つ特徴と全く同じといえる。

「継続性」とは、会社が持つ、優れたコンピタンスを生み出すことへのたゆまぬ努力を続け、そしてこのコンピタンスを世代を超えて維持する能力のことである。ミラーは近視眼的な場当たり経営がはびこっている時代にあって、同族企業の継続性は見直されるべきだと説く(ミラー64頁)。

「会社の擬人化」とは、創業家は従業員の世話をし、従業員は会社のために最善を尽くすという認識が生まれる関係のことで、広範な互恵性をもつ永続的関係への友情や血縁関係のような同義的コミットメントをいう。ミラーは、業績が好調な米国の同族企業は、顔のない法的組織と非人格化された人員との関係ではなく、雇う側と雇われる側の心の絆を大切にすると述べる。

アベは、日本企業は日本社会に根ざした習慣と価値観に基づいて独自の統治方法を開発し、ほんとうに効果があり長続きする統治の仕組みを編み出すべきだと説く(アベ226頁)。世界的に見ても決して恵まれた自然条件とはいえない島国日本で生まれた日本的経営は、世界でも十分通用するし、それこそがグローバル化する世界の中で日本企業が生き残っていく経営システムといえるのではないか。

現在、日本企業はいまさまざまな困難に直面している。終身雇用制、年功序列というかつての日本的経営を支えた大きな柱を維持することは困難となった。

 しかしながら、終身雇用制とはいわないまでも長期雇用制は、どのような事業を行っている企業にとっても、従業員のスキルと経験、仕入先や顧客に関する知識、会社に対する忠誠心が維持されるほど、利益を最大限に増やすのに有利になる(アベ126頁)。また、年功序列制の維持は明らかに無理だと思われるが、年功制と能力制の併用は決して不可能ではないし、長期雇用を前提とするのであれば、むしろ不可欠と考えられる。

日本経済が成功を収めてきたのは、技術水準が低く労働集約型で低付加価値の製品から高付加価値の製品へと着実に移行してきたからであり、今後もこの移行を続けていくことが成功のカギになる(アベ114頁)。そのために日本企業が日本の風土に合わせながら作り上げてきた日本的経営を、現代の経営環境に適合させる必要がある。

日本経済が成功を収めたのは何よりも、日本の風土に基づいて経営システムを築き上げたことによるのであり、自らの基盤から離れる動きをとる際には、リスクがきわめて高いことを覚悟しなければならない。

 

参考文献

アベグレン、ジェームス・C、山岡洋一訳 『新・日本の経営』 日本経済新聞社2004年

ミラー、ダニー ミラー、イザベル・ル・ブレトン 斉藤裕一訳『同族企業はなぜ強いのか?』ランダムハウス講談社2005年

網野善彦 『「日本」とは何か』講談社 2000年

石井寛治 『日本流通史』 有斐閣 2003年

鬼頭宏 『文明としての江戸システム』 講談社 2002年

倉科敏材 『ファミリー企業の経営学』 東洋経済新報社 2003年

白石隆『海の帝国』中公新書2000年

丹野勲 『アジア太平洋の国際経営』同文館 2005年

新渡戸稲造『武士道』岩波文庫1938年

間宏 『日本的経営の系譜』 文真堂 1989年

安田喜憲 『文明の環境史観』中公叢書2004年

湯浅泰雄 『日本人の宗教意識』 講談社学術文庫 1999年

溝口雄三・中嶋嶺雄 『儒教ルネッサンスを考える』 大修館書店 1991年