東アジア的経営組織論

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第3章 タイ経済のダイナミズム

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ダイナミックに成長を続けるタイ経済

 1980年のタイ経済は第2次オイルショックと世界同時不況により、前半の実質GDP成長率は平均5.4%にとどまった。しかし、タイは1985年のプラザ合意以降、急激に進む円高に対応するために海外へ生産拠点を移す日系企業の進出や、さらには韓国、台湾などのNIES諸国からの直接投資により、高度成長を続けた(図1,2)。1997年の通貨危機発生までの成長は「アジアの奇跡」と言われた。

 GDPもジェトロの「タイ概況」(2004年9月)によれば2002年度名目で1,265億ドル、日本の約3.2%であるとされる。

図1

図2

出所:ジェトロ・バンコクセンター「タイ概況」2004年9月

タイへの投資は1997年の通貨危機を境に、変化したといわれる。通貨危機以前はタイの内需の高まりに呼応した内需指向型投資であった。通貨危機により内需が冷え込む一方で、バーツ安が進むと米国で活況を呈するIT産業が牽引する格好で、電子・電気分野を中心とした輸出志向型投資が活発化していった。

2002年の中国のWTO加盟により外国投資は中国へ集中したように思われがちであるが、すでに40年近くに及ぶ日系電気産業が行った投資の蓄積を背景として、アセアン域内では後に述べるAFTAをにらんだ生産拠点の再編成が行われた結果、時流はタイへ集約する方向にある。自動車産業など他の産業も含めて、中国の生産拠点は中国市場と日本市場向け、アセアンの生産拠点はアセアンおよびそれ以外の海外市場向けといった棲み分けが確立されつつある。 

図3

出所:Bank Of Thailand

通貨危機以降、タイ経済は政府による迅速な不良債権処理、国際収支改善、インフレ抑制、さらに減税などの景気刺激策の効果などにより、1998年後半から回復過程に入った(図1,3)。

2002年になると自動車販売などの民間消費と民間投資などの好調な内需と、電子・電気などが好調な輸出に支えられて本格的な回復基調に入った。2003年になると、タイの大きな産業である農業分野の伸びや、輸出部門では電子・電気分野、自動車分野などが大きく伸びた。

特に自動車については、通貨危機前の1996年には生産台数は59万台まで順調に伸びてきたが、1997年の通貨危機で大幅に減少した。しかしその後、2002年までに通貨危機前の7割まで回復すると2003年には75万台と過去最高を記録し、2004年も9月までで66万台と過去最高を更新する勢いである(図4)。

 

図4

出所:「タイ国経済概況(2001/2002年版)」、新聞記事

タイで電気産業や自動車産業が大幅に伸びている理由としては、部品産業の集積が進んでいる点、日本的な経営になじみやすいと言われる比較的質が高く安価な人的資源、自由貿易協定(FTA : Free Trade Agreement)にみられる積極的な外資誘致政策などがあげられる。人的資源については次章で詳しくのべるが、FTAについてはふれておきたい。

タイはシンガポール、メキシコとならび世界的にもFTAの締結に積極的である。タイはすでにオーストラリアとFTAを締結したが、それ以外にも中国やアメリカ、日本、インドなどさまざまな国と積極的にFTAの締結交渉を進めている。FAT 以外にも、アセアン域内の共通効果特恵関税(CEPT : Common Effective Perpetual Tariff)を施行しており、アセアン全体で進める中国やインドとのFTAもあわせて他国になく積極的に貿易の自由化促進に努力している。

FTA締結の効果には、関税の低減などによる輸出促進によりタイ国製品市場の開拓や、FTA未締結国と比較した競争力向上、そしてFTA締結国としての優位性を背景とした外資誘致という点である。FTAは早期に締結することで排他性を勝ち取ることができるため、タイはその点を理解し、積極的に締結交渉を進めている。

 FTA以外にもミャンマー、カンボジア、ラオスの隣接国と経済協力戦略(ECS: Economic Cooperation Strategy)や中国、ラオス、カンボジア、ベトナムとの拡大メコン流域経済協力(GMS: Greater Mekong Sub-Region Economic Cooperation)など、タイを中心とした経済圏の拡大に積極的に努めている。

表1

タイのFTA交渉 
アセアンアセアン自由貿易地域(AFTA)
 2002年から実施済み
 アセアン域内関税を2015年までに0%へ削減
オーストラリア2004年7月締結
 2025年までに段階的に全関税品目の関税撤廃
 その他、外資規制の緩和、人的交流の優遇策
中国交渉中
 2003年10月よりアーリーハーベスト措置開始
 (野菜、果物の関税を先行撤廃)
 2005年1月から関税引き下げ開始予定
 2010年中に関税撤廃
インド交渉中
 2004年9月からアーリーハーベスト措置開始
 (82品目について関税引き下げ)
日本2004年2月から交渉開始
バーレーン2002年12月枠組み協定締結済み
 手続きの遅れで実施されず
米国2004年6月より交渉開始
ニュージーランド2004年11月までに交渉終了予定
ペルー2004年1月から交渉開始
BIMSTECベンガル湾多分野技術経済協力イニシアチブ
 (参加国:タイ、インド、スリランカ、バングラディッシュ、
 ブータン、ミャンマー、ネパール)
 2004年2月枠組み協定締結

出所:JETROバンコク資料より

タイの経済発展

タイは1980年代になって日本をはじめとする外国直接投資が急増した。1960年代、タイは輸入代替工業化を続けていた。この時代、工業原料の輸入増により貿易赤字が拡大する一方で、米やタピオカ、メイズなどの農産品の輸出が拡大したために、貿易赤字問題が表面化するのを遅らせることができた。

しかし60年代末になると、ベトナム特需が縮小し、一次産品価格は下落し、駐留米軍が撤退すると、貿易赤字問題が表面化し、輸入代替工業化政策は輸出指向へと転換をせまられる。

1960年には産業投資奨励法が制定され、BOIの主導で国内資本育成と外資導入を積極的に進めた。優遇措置の結果、投資は増大し、外国からの直接投資も急増した。1960年前後の不安定な情況におかれていた東・東南アジア地域全体を展望してみるとき、タイがこのような開発戦略を採用したとう歴史的事態は本当に例外的な出来事といってよい(原154頁)。

なぜこの時点でタイがこのような政策が採用されたかに関しては、世界銀行等の外部勢力の経済政策への影響を重要視するのが代表的見解だが、それ以上に、タイ国内にそういう政策体系を受け入れる条件が存在していたという事実の方が重要であった(原152頁)。

タイの経済開発に対して決定的な影響を与えることになった政策体系はサリットによって1960年前後に採択されたものであった。特徴としては、第1に外資系企業を含めた民間企業活動の自由を保障した。外資系・中国系を含めた民間企業に経済活動の自由を保障したのである。第2に、政府の役割は道路等インフラストラクチャの整備に限定されている。第3に、国家財政収入確保の目的から農業への課税は、米・ゴムなどの輸出への課税だけに限定され、国内での商人・農民の自由な商業活動への介入は行われていない。

サリットが採択した以上のような経済開発のための政策体系は、「政府介入の強いアジア・モデルではない、東南アジア・モデル」の代表であり、古典的経済自由主義が理論的に想定しているような政治経済システムに近いものであった。

 政治体制の面でのサリットの体制は、独裁的温情主義の統治と性格づけられるものであったが、その基本は20世紀初頭にラーマ5世によって行われたチャクリー改革期の中央集権的官僚統治体制への先祖帰りを意味するものであった。

チャクリー改革期とは現王朝のチャクリー王家の政治的独立を維持していこうとする強い意図によって実施された諸改革である。経済的政策の要点としては、歳出は歳入によってカバーされるべきとする保守的財政政策、バーツの国際的信用の維持を最重要目標とする超健全金融政策、さらに国家による産業育成政策の消極性が挙げられる。

すなわち保守的な経済政策と民間企業家の自発的な活動による自然発生的な産業化という組み合わせこそが、チャクリー改革期以降のタイ経済の伝統で、1960年代にサリットはそうしたタイの伝統に回帰する政策体系を実施したのである。

ただし1970年代にはナショナリズムの台頭から外資規制など外国系企業規制法、外国人職業制度法など外資系企業の規制強化も行われた。1979年第2次石油危機では。タイでは激しいインフレと国際収支悪化、株式市場の大暴落などに見舞われる。しかし1985年のプラザ合意による世界的なドル安に伴い、最初に触れたようにタイへの怒涛の外国投資が始まるのである(図3)。

図5

図6

図7

出所:『タイ国経済概況(2002/2003年版)』『タイ経済入門 第2版』

タイの経済発展を他の東アジアおよび東南アジア諸国と比較するとき、農業分野という大きな相違点が存在する。

1970年代にタイも輸出の伸びは年率25%に達したが、タイで伸びた輸出品は繊維・電子製品ではなく、米やキャッサバ、魚介類などの農産物、および、冷凍チキン、水産物缶詰、砂糖など農産加工品であった(図6)。

 もうひとつ重要な違いは、就業人口に占める1次産業(農水産業)の圧倒的な比重である。タイの農業部門が就業人口に占める比率は、1960年から1980年の20年間に82%から73%へと9ポイント下がっただけであった。2000年時点においても44%を占めるのである(JCC162頁)。タイは農業の国、農民の国なのである。

 こうした事実でもタイが高い成長を維持できたのは、まず農産物やその加工品が絶えず主要輸出商品の地位を維持してきたからである。発展途上国の多くが、農産物は輸出するどころか、基本食糧さえも輸入に頼っているのが現状であるが、タイの場合、食糧自給はもちろん、農業を国際競争力のある輸出産業として維持してきたことは世界的にも貴重であり、今後の世界情勢を考えると大きな優位性を持つことになるのは間違いない。

 第2の特徴としては、農産物やその加工品の輸出拡大による外貨獲得が、輸入代替産業に必要な原材料や機械類の輸入を可能にし、さらにそうした産業に国内市場を提供したことである。1960年代から本格的な発展を遂げる輸入代替産業としては、繊維、家電、自動車組み立て、化学肥料などがあるが、これらの産業が米作地帯や輸出向け商品作物を導入した地方に販路を見出したのである。

 第3に輸出向け農産物やアグロインダストリーの発展が、タイの資本家、財閥を生み出したことである。こうした世界的に競争力を持つタイのアグリビジネスからチャルーン・ポーカパン社(CP)のようなグローバル企業が生まれるのである。

タイでは農業部門が、輸出、国内市場、資本家形成などさまざまな分野を通じて工業部門の成長を助けてきたのである。タイを代表する多国籍企業であり、アグリビジネスの雄であるCP は後ほど別の章でみる。

タイの電機・電子産業

 タイは農民の国とはいったが、現実には多くのタイ資本の大企業が存在する。一般にはCPやサイアムセメントといった大手財閥系企業が有名であるが、ここではタイ資本の電機・電子メーカーと、日本には存在しない株式会社の病院を紹介する。

 タイの電気・電子産業は日本、韓国、台湾などの大手電機メーカーの進出によって発展してきたが、タイ企業も1980年代に、1960年代の台湾同様、OEMによって成長してきたメーカーが少数であるが存在する。台湾のようなダイナミズムはタイの電気・電子企業には少ないが、タイ電気・電子企業の中にもOEMから抜け出して、独自ブランドによるマーケット拡大などに努める企業も出始めている。そうした企業には

ただ、成長著しい中国メーカーとの戦いに勝利するには、一層のR&D、ブランド戦略など課題は多いのも事実である。

ハナ・マイクロ電子

集積回路(IC)メーカー。2003年度の売上で8643mバーツ。タイ国内に3工場を持つとともに、中国・上海、米国・オハイオにも工場を展開している。

タイ国内では、LED、デジタルカメラ向けIC、さらにRFID用ICなどさまざまな分野に商品を提供している。

中国・上海工場では、中国内の米国系企業向けに高周波ブロードバンド向けのモデム用やノートブックコンピューター向けにIC を製造販売している。さらに中国の欧州系自動車メーカー向けにIC を製造販売している。

米国オハイオ工場では、高品位テレビ、携帯電話向けのIC を供給するとともに、2003年からはフィリップス向けにシリコン液晶テレビ用のICを供給開始した。

KCE電子

プリント回路基板(PCB)タイ最大手で、タイ初のプリント回路基板(PCB)メーカーとして1983年に設立された。2002年度の売上で3735mバーツ。タイ国内に4工場を持ち世界各国へ輸出している。KCE ヨーロッパ、KCEアメリカ、KCEシンガポール、Enzmannヨーロッパなど世界各国に自社出資の販売会社を持ち、海外ネットワークを拡大している。

図8

出所:Thailand Company Handbook

図9

出所:Thailand Company Handbook

ダイスター電器

1982年設立の地場系家電メーカー。2002年度の売上で2160mバーツ(60億円)。テレビ、デジタルオーディオ(DVDなど)、冷蔵庫、携帯電話、エアコンなどさまざまな家電製品をOEM及び自社ブランドで製造販売している。

OEM先には日本のサンヨー、韓国のDAEWOO社、さらに中国の家電最大手ハイアールがある。特にハイアールとは2002年に提携してテレビや冷蔵庫のOEMを開始した。

 OEM生産が現在のところ事業の大部分を占めるが、自社ブランドの「ダイスター」製品を、タイ国内だけでなくマレーシアなど東南アジア諸国へも輸出、販売している。テレビについては11%のマーケットシェアを持つ。

 DVD のようなデジタル製品用の品質の高い部品を世界中から購入して組み立て販売する。市場のマーケットをいち早くつかむ商品設計で、性能に優れたデザイン良い製品を低価格でタイや東南アジア諸国に供給している。

病院経営のダイナミズム

 タイ証券取引所に上場している病院グループは12社ある。私立病院業界はバブル期の過剰投資のために、1997年の通貨危機で大きく負債を抱えることになり、1998~1999年の間に28病院が閉鎖された。ただ最近のタイの景気回復や健康ブームの影響もあり病院経営が回復に向かうと、タイ国内では病院間のM&A が積極的に行われ、病院の再編成が進んだ。さらに大手病院のなかには海外病院のM&Aなど積極的な経営拡大も行われている。

 タイでは国家として、重点的に旅行産業やヘルスケア産業に力を入れていこうとしているが、ヘルスケア分野では病院がその一つの中核を担うものと思われる。そのため、国際的な競争力を持つ病院経営の育成が求められている。

バンコク・デゥシット・メディカル・サービス(BGH)

経営規模で最大手のバンコク・デゥシット・メディカル・サービス(BGH)は国内で13館の大型病院を経営する。2003年度の資産規模で73億バーツ、資本金は37億バーツ。M&Aを最も積極的に行う病院として有名である。また、大株主にサムイ島への空路の開拓や、混乱期のカンボジアへの人道援助からアンコールワットがあるシェムリアップ便を独占するなどのベンチャー航空会社バンコクエアウェイズの社長がいることも異色である。

 通貨危機後の苦しい状況をいち早く乗り越えたBGHは、2001年には外国人利用客の多い高級私立病院バンコク・ナーシング・ハウスの株式51%を取得した。また、同様に外国人利用客が多いが通貨危機後、債務超過に陥っていたサミティヴェート病院に資本参加するなど、病院事業の拡大を進め、2001年時点でタイ病院市場シェアの10%に達した。

2003年には、サミティヴェート病院などの3病院を株式交換の手法により完全子会社化することを発表した。さらにグループ病院間で医薬品の共同購入システムを立ち上げるなど積極的に病院経営の合理化を進めている。

バムルンラート病院(BH)

 BHは東南アジア最大の民間銀行であるバンコク銀行グループ系列の私立病院である。バンコク銀行グループは後ほど述べるCPグループに次ぐタイ華人財閥で、銀行のほかに証券、保険、不動産などからなるタイ有数の金融財閥である。

BH はバンコク銀行グループをバックに、世界水準の医療施設と海外留学をしたスタッフをそろえる高級私立病院である。2003年度の資産規模で44億バーツ、資本金18億バーツ。外国人向けの医療パックツアーも実施しており、東南アジアから通院する外国人も多い。

 BHも通貨危機後、一時は債務超過に陥り、経営危機に瀕したが、その後は順調に経営を回復し、現在ではBGHと激しいシェア、サービス争いを繰り広げている。今年になるとBHはフィリピン・マニラの大手私立病院のM&Aを発表した。タイの私立病院が海外の病院に資本参加するのは初めてのケースとなった。BH は2005年度からミャンマーとバングラディシュで病院の受託経営を始めるなど、タイ国内だけでなくアジア地域事業拡大を進めている。海外からの患者誘致のために、カンボジア、スリランカ、オランダ、ベトナムなどに連絡事務所を設けるなどしている。

図10

出所:Thailand Company Handbook

図11

 出所:Thailand Company Handbook

参考文献

Vinyaratn ,Pansak “21 st Century Thailand – Facing the Challenge” CLSA Books 2004 

Brooker Group “Thailand Company Handbook”2004 

末廣昭『タイ 開発と民主主義』岩波新書1983年

原洋之介『アジアダイナミズム』NTT出版 1996年

バンコク商工会議所編 『タイ国経済概況(2002/2003年版)』2003年

原田泰・井野靖久『タイ経済入門 第2版』日本評論社1998年

ジェトロ・バンコクセンター「タイ概況」2004年9月