東アジア的経営組織論

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第2章 微笑みの国での企業経営 –泰国的経営の形成

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1)国王とメコンデルタの作る社会構造

海洋王国

1351年にアユタヤに都がおかれた。アユタヤは、ロッブリー川、パーサック川、チャオプラヤー川の合流する地点にあり、シャム湾から約100キロ上流に位置する。南下を続けてきたタイ族が海の世界に到達した場所である。アユタヤは、これらの河川の合流点に位置することによって、それらの地域に産する物産を手に入れ、ベンガル湾に面した港を支配化に置くことによって東西貿易路を確保し、東西貿易の結節点となった。現在のシンガポールが果たした役割をアユタヤは果たしていた。

 アユタヤは中国の明朝との間で朝貢貿易を行い、15世紀に入ると琉球船も頻繁にアユタヤを訪れた。17世紀にはオランダ東インド会社がアユタヤに進出し、日本からは朱印船が訪れ、アユタヤは日本人町、ポルトガル人町などができ、多くの外国人の住む国際的交易都市として栄えた。交易を独占することが王の権力基盤となった。アユタヤ王朝の国王は、中国、フランス、オランダ、インド、日本など世界中からの輸入によって多額の利益をあげた。さらに租税として得た各地の物産を商人に払い下げたり、中国商人、インド商人、アラブ商人などに委託貿易の形式で海外に輸入したりして莫大な利益をあげていた。このように商業的利益という基盤の上に権力が成立しているために、タイの王はしばしば商人王と呼ばれる(原1999 235頁)。

 国王がこうした商業活動にその富の源を求めたことには理由があった。

まず地理的な位置関係がそれである。当時、アユタヤは中国とインド洋との結節点となっていた。アユタヤはベンガル湾側のメルギやテナセリムを外港として持つことによって、インド・西方~メルギ~マレー半島横断路~アユタヤ~南シナ海~中国というルートによるインドと中国の双方を結ぶ中継貿易港の役割を果たしていた。このルートは、マラッカ海峡経由の東西航路より所要時間が短く、蒸気船の登場と1819年のシンガポール開港以前の東南アジア貿易上重要な役割を持っていた。

 さらにアユタヤはチャオプラヤー川とパーサック川を媒介として、物産豊かな後背地を結ばれることによって、海外において需要の大きい多種多様な輸出向け森林生産物の調達が容易であった。またアユタヤはチャオプラヤー・デルタという有力な余剰米生産地を後背地に持つことによって、海外市場での米需要に応えることができた(石井 80頁)。

 アユタヤ時代の国王はすぐれて「大商人」(石井32頁)であり、アユタヤという国家はこれをたすけて活発な商業活動を行う官僚群からなる「商業国家」であった。一方、国民の多数を占める稲作を正業とする農民との関係はどうであったのか。

 この時代にも米は輸出産品の一つであったが、アユタヤ王朝においては国王が農民の生産活動、特に米つくりに積極的に関与することはあまりなかったようである(石井36頁)。都のおかれたアユタヤがチャオプラヤー川の氾濫原に位置したことに原因もある。氾濫原に卓越する水のもつエネルギーの圧倒的な巨大さゆえに、人々は自然に対する挑戦をあきらめ、国王はもっぱら貿易による国富の、より厳密には王家の富の増大をはかった。

一方で、農民たちは、チャオプラヤー川の自然のちからに共鳴するような生産方法を編み出した。すなわち浮稲と呼ばれる、増水速度に打ち勝って草丈を伸ばす品種の選抜に成功したのである。モンスーン気候の下では、用水の支配者も乾燥地域におけるほどの強力な支配権の行使は困難で、乾燥地域にみられる専制的な「水力社会」の成立しにくい社会であった(石井24頁)。

 1767年ビルマ軍の侵略を受けてアユタヤ朝が滅びると、武将タクシンが王位に即位し、バンコクの対岸のトンブリに都を移した。トンブリ朝はクーデターによって倒れ、1782年武将チャクリが即位し、都をバンコク側に移し、チャクリ朝を開く。これが現王朝である。バンコクはアユタヤの下流にあり、貿易のコントロールという地理的条件は同じであり、商人王的性格は引き継がれた。

近代における国王の役割

タイ国民のアイデンティティを支えるもっとも重要な要素は、仏教と国王の2つで、タイ国の繁栄は、仏教と王室の繁栄を通じて実現されると考えられている。タイ国王の仏教に対する役割を「仏教の至高の大外護者」であり、仏教を発展させ、もって国民に信仰の拠り所を与える存在であると一般には考えられている。国王は仏教の正しい発展させ、国民の信仰のよりどころを与える存在とされているのである。

近代のタイの国民統合や政治体制をみていくうえで決定的に重要なのが、民族、宗教、国王の3つを原則とする国是である。「ラックタイ(タイの礎)」と呼ばれるこの3原則を定式化したのはラーマ6世(治世1910-25年)である。さらにこの3原則と国家建設の中心イデオロギーとして前面に打ち出したのは、1958年にクーデターによって政権に就いたサリット首相であった。

国王を頂点とするかつての身分制度はサクディ・ナー制度と呼ばれ、1455年ボロム・トライローカナート王が制定した政治的、経済的支配のための制度であった。19世紀始めにはタイ社会はエリート(王族、貴族)と大衆に分かれていた。国王とその一族、貴族は政治、経済を完全に支配し、それ以外の大衆は自由人と奴隷からなっていた。この制度は国王がすべての国土を所有し、身分、位階、勲などによって定められた面積の土地の使用権を与えたものである。サクディ・ナー制度は、1900年チュラロンコン王(ラーマ5世)のチャクリ改革によって廃止されるまで続いた。

タイの近代化はチャクリ改革によって始まる。チャクリ改革は、1855年英国と締結したボウリング条約によって王室による貿易独占体制が崩れ、世界的な自由貿易体制に組み込まれた情況の中で進められた。西欧列強による植民地支配が進むアジア諸国の中でタイ王国の独立を守るため、ラーマ5世は王族や貴族が強く抵抗する中、さまざまな特権を廃止する一方でタイの近代化を推し進めた。この改革によって国民に土地の私有制を認め、地租徴税法を制定した。1902年には賦役制度を廃止し、1905年には奴隷制度を廃止するなど旧制度を根本から改革したのである。

ただ、このサクディ・ナー制度の影響が今日でもタイ国民の中に潜在的に残っているといわれ、目に見えるか否かを問わず、旧支配階層であるエリート階層と旧支配階層に相当する下級階層との厳然たる区別があるといわれる。

経営基盤としてのメコンデルタ

チャクリ朝以後、タイ社会の近代国家はチャオプラヤー・デルタという生態系の上に形成されていった。もともとデルタは、共同体的な規制という制約が全く無い地域であった。そこは19世紀後半になってはじめて開拓された新開地であったため、人口密度が低く誰でも使っていない土地を利用しうる状態にあった。

デルタでは雨季の河川の氾濫水を利用して稲作が行われ、タイの大衆は必要なものは楽に得られる過疎の肥沃なデルタに住んでいた。タイの大衆は自給自足で暮らせたから、倹約など何の価値もなく、蓄財のために働くという習慣はあまりなかったようである。

またタイの大衆はサクディ・ナー制度のために、職人の特技の発展さえ押さえつけられてしまった。農民は義務も規制も少なかったが、特技のある職人は生涯王室に仕えなければならずために、タイ人の創意や独創性は窒息してしまったのであった(スキナー69頁)。

こうしたタイの社会的背景から、アユタヤ時代から続く中国の華南地方からの移民である多くの華僑がチャオプラヤー・デルタにも定着した。華僑はその中国でおかれた厳しい生活環境の影響から、質素と倹約に努め、勤勉に良く働いた。都市に住む華僑商人の往来も全く自由を与えられていたため、デルタの人間と華僑商人との接触は相互利益だけで結びつく自由な関係であった。華僑商人の排除といったことはほとんどみられず、華僑の農村内への定着すら決して例外ではなかったのである(原157頁)。

1855年ボウリング条約以降、タイが国際貿易体制に組み込まれていく際に重要な役割を担ったのが、華僑であった。華僑と現地化した僑生は、米作のフロンティアを地方に広げ、バンコクから輸出市場につながる華僑ネットワークをタイ国内に張り巡らせたのである。

ボウリング条約はタイの社会経済的諸制度を根本的に覆し、その再編成をせまる内容であった。自由貿易の原則は、数百年間にわたってタイの国家権力を支えてきた王室独占貿易の否定であり、その結果国家機構の経済的基盤としての徴税は、伝統的意味を失い、否応なしに、タイにおける近代化を余儀なくさせた。さらにこの条約によって米の輸出が自由され、増大する海外米市場の需要に応えて輸出が急激に上昇し、これにともなってタイにおける稲作が、特に新デルタを中心として爆発的な伸びを示した(石井44頁)。

タイの経済発展は、タイをとりまく世界経済の状況変化に柔軟に適応してきた結果であった。そしてこのような柔軟な対応の主役が、利潤機会に敏感に反応する華僑商人と、そこから育成されてきた華僑を中心とする企業家であった。タイの農業発展も華僑商人の主導とそれへのタイ人、僑生農民の柔軟な対応によって引き起こされたのであった。

2)揺れる王室と華僑資本の成長

民主化と華僑の財閥化

 近代化の流れは国王制度の見直し、民主化へと政治制度の見直しを迫った。その中で1932年におきた立憲革命により国王はその権威を一時低下させることになった。

1958年クーデターにより政権についたサリット首相は、「ラックタイ(タイの礎)」の統治原則を国家建設の中心イデオロギーとして前面に打ち出した。タイの国家建設と国民統合はまず国王と仏教に対する国民の全幅的な尊敬や信頼の醸成からはじめなければならないし、民族を代表し仏教の最高の擁護者である国王を守るのが、政治指導者の最大の責務である、というのがサリットの考えだった。

彼は、1932年の立憲革命以来その威信を低下させていた国王の地位回復にまず努め、同時に仏教組織の抜本的な改変に着手した。そして、タイ民族の経済的繁栄と近代国家を実現しようとした。

(末廣 28頁)

 サリット首相が提唱し、その後、形を変えて繰り返し登場するタイ式民主主義は次の3つを重要な構成要素とする。すなわち、①国王を元首とする政治体制の護持、②議会や政党に優越する政治指導者の存在(さまざまな階層・団体の利害を代表する政党政治家ではなく、国民を庇護する統治者としての政治家を重視する発想)、③政治指導者による国民的利益の追求、もしくは社会的公正(タム)の実現である。

 かりに権力を集中しても、①に背き、③をおろそかにする政治指導者は、結局、「バラミー(徳、威信)」がない人物とみなされ、別の指導者によって権力の座から追放されてきた。そこに、タイ政治にダイナミズムと周期的転換が生じる根拠がある。①から③の用件を、多くのタイ国民が受け入れてきた事実をその背景も無視すべきではない。

 サリット首相は西欧型議会制民主主義を革命によって否定し、断固とした政治運営を強調したが、これは民主化要求と対立せざるをえない。そこで、サリットが持ち出した理念が「ポー・クンの政治」つまり国民を「子供」と位置づけ、首相=政治指導者を「父親」、もしくは庇護者ととられる政治理念だった。サリット体制を始めて本格的に分析したタイ人政治学者タックはこれを独裁的温情主義と名づけた。(末廣 219頁)

 1932年の立憲革命以降、絶対君主制とは形を変えて権威を確立した立憲君主制のもとで、タイは経済発展をしてゆく。

 タイが他の発展途上国と根本的に違っていたのは、現在でもそうだが、食料自給が可能でしかも国際的な競争力をもつ輸出国であったことである。多くの発展途上国は農産物を輸出するどころか、基本食糧さえも輸入に頼っているのが現状であった。そうした点からは、食糧の自給はもちろんのこと農業を国際競争力のある輸出産業として維持してきたタイは途上国のなかでは稀有な存在であった。

 タイは農産物やその加工品の輸出拡大による外貨獲得が、輸出代替産業に必要な原材料や機械類の輸入を可能にし、さらに同産業に対する国内市場をも拡大させていった。コメや農産物の輸出がライスプレミアムや輸出税の形をとって中央政府の財政収入、したがって工業開発資金の財源に貢献してきた。

 輸出向け農産物やアグロインダストリーの発展が、タイ国内に新しい資本家層、つまりアグリビジネス・グループを生み出した。ブロイラーのCPグループ、化学肥料のメトロ、コメやタピオカのスンファセンなどが典型である。アグリビジネスは日本企業が先導する家電、自動車組立、繊維と違って地場の資本が主導性を発揮している。タイでは農業部門が、輸出、国内市場、財政、資本家形成のあらゆる分野を通じて工業部門の成長を助けてきた(末廣135頁)。

 そしてこのアグリビジネス・グループを形成したのが、華僑と現地化した僑生たちで、やがて財閥化の過程でコングロマリットを形成し、タイ経済の発展に大きな役割を果たすのである。

華人財閥の果たした役割

 タイの経済発展は、タイ人(および現地化した華僑たち)による農産物輸出よりも、外国資本や多国籍企業の進出が多くを担った一般的には考えられがちであるが、民族資本、とくに現地化した華僑資本が築いた財閥の果たした役割は非常に大きかった。

  例えば、工業製品輸出のうちアグロインダストリー関連、繊維・衣類、宝石、運動靴、プラスチック製品のかなりの部分は、タイ企業が生産・輸出の中心を占めていた。ブロイラーや冷凍エビのCPグループ、ツナ缶詰のユニコード、タイユニオン、繊維のサハユニオン、スックリー、運動靴のサハ、サナユニオン、プリント基盤のチンテックなどがその事例である。

 重化学工業プロジェクトの場合には、タイ政府が外国資本の出資比率を49%に抑制していた。一連のプロジェクトの現地パートナーを務めているのは大半が既存のタイ系財閥であった。こうした事実を無視して外国企業によるタイ経済支配を強調してもそれは実態の正しい把握にはつながらない。

 注目すべきは1980年代後半から始まるタイ系財閥の事業再編と経営改革の進展である。国際環境の激変と政府の政策転換に機敏に対応する財閥の存在をタイ経済発展の担い手として評価しなおす必要がある。タイ経済発展を外的要因や多国籍企業の進出に安易に還元するのではなく、タイ系財閥、特にタイに根付いた華人系タイ財閥自身の自己改革やイノベーションに求める視点も重要である(末廣 142頁)。

タイにおける華人財閥はその形成、発展の過程がアジア各国とくらべて比較的順調であった。すでにみたように歴史的に華僑はデルタ地域でタイに同化をしていったこともあり、フィリピン、マレーシア、インドネシアなどと違い現地ナショナリズムの影響をほとんど受けずにすんだ。時の支配者も民族の同化政策を進め、華人に対して差別することなく、政治、経済など各分野で自国民と全く同じ権利を与え、華人の現地社会への融合を促進した。そのためタイにおける華人経済はそもそも民族資本と見られていた。

タイの財閥企業は、後ほど述べる華人的経営の一般的特徴の通り、一族を中心に企業グループを形成していった。近代的な株式会社の形態を採用してきたが、一族経営体質はそのままといえる。経営分野の単一化から投資分野を拡大して経営の多角化、コングロマリットを形成していった。

企業グループの組織形態や経営管理は、一族の中核企業を中心として、親会社あるいは持株会社が主要な子会社をコントロールし、その子会社がさらに傘下の企業をコントロールするという構造である。これによって親会社から末端の傘下企業までの企業グループが形成された。グループの経営陣、主要子会社の経営者はすべて一族メンバーによって占められ、企業グループの所有権と経営権は一族に握られることになる。

3)泰国的経営の形成      

タイの華人的経営

華人はもともと家族と親族を大切にする伝統がある。移民先の外国で最も頼りになるのはまず血縁関係のある親族であるのは当然であった。さらに中国本土での同郷関係の地縁や、同じ事業に従事している人達のネットワークである業縁など、さまざまなネットワークを利用することで経営を拡大していった。これはタイにおいても同様であった。

その結果、タイの華人系企業のほとんどは一族経営である。家族一同で協力し、力を合わせて事業を興し、拡大させていくには、一族企業の組織構造が最もふさわし経営形態であった。企業が発展し、大きな企業グループになっても組織構造と経営形態には血縁関係を重視した一族経営の影響が強く残るのは東南アジア一体に多い華人的経営の特徴である。

所有と経営の一致するのも華人的経営の特徴で、家族一同が企業経営に参加し、傘下の企業、事業あるいは地域をそれぞれ分掌する。タイの華人企業は東南アジア地域においても突出して企業規模が大きいが、基本的な企業形態は変わらない。タイの華人財閥も一族を中心に企業グループを形成している。近代的な株式会社の形態を採用してきたが、一族経営体質はそのままである。

企業グループの組織形態や経営管理は、一族の中核企業を中心として、親会社あるいは持株会社が主要な子会社をコントロールし、その子会社がさらに傘下の企業をコントロールするという構造となっている。これによって親会社から末端の傘下企業までの企業グループである財閥が形成された。グループの経営陣、主要子会社の経営者はすべて一族メンバーによって占められ、企業グループの所有権と経営権は一族に握られることになる。

上場しても基本構造は不変である。一族が持ち株会社を通じて親会社あるいは中核企業をコントロールし、さらに傘下の子会社、関連会社をコントロールするという構造になっている。

ただ現在では、経営管理には先進国企業の管理方法がとり入れられ、欧米で教育を受けた経営管理の人材をグループ企業に配置している。さらに、株式市場での上場により、情報公開などが進められ、華人系企業もある程度透明度が高くなったといえる。

こうした株式上場と外部人材の登用によって、所有と経営の分離は進展したようにみえる。しかしながら、傘下企業を上場させて所有と経営を分離しても、一族が企業を支配できるだけの大部分の株式を保有していることには変わりない。

現在の日本では一族経営や所有と経営の一致にマイナスイメージを持つことが多いが、必ずしもマイナス要因ではなく、ある意味では合理的な経営戦略でともいえる。まず、国家による保護や日本の企業グループによる株式の持ち合いなどは歴史的に期待できなかったため、敵対的な買収攻撃からグループを守るには一族による株式の所有以外には手段がなかった。経営管理の面からみても、所有と経営を一致させることで、グループの子会社のコントロールを機能的に管理しでき、さらに資金の集中をしやくできた。経営の意思決定の速さと機動力を維持できたのである。

一族によって敵対的買収から企業を守る一方で、華人系企業の急速な発展には金融市場を積極的に利用することによって買収、合併と資本参加が頻繁に繰り返されたことが重要な要因となっている。買収と資本参加による激しい合従連衡のなかで、タイの華人系企業グループはその規模と実力を急速に拡大してきた。

 

徳による経営

以上のような華人的経営の特徴をもちながら、さらにタイの社会構造から生まれる企業経営形態が泰国的経営である。

 歴史的な社会構造は、現代のタイにおける企業経営でも影響を与えることになる。階級社会をもつ歴史的背景から、企業組織のなかでもタイ人は独自のゆるやかな階層を形成する。目に見えるような階層であるマネジャーとスタッフ以外にも、現場作業者、運転手などさまざまな職能によってその階層は細分化されている。

経営上、さまざまな場面で階層組織を意識した管理が必要となる。この階層を全く無視した形による指示は、タイ人マネジャーのプライドを傷つけることとなり無用な反発を招く上に、指示を受けたスタッフの混乱を招くような事態にもなりかねない。現在のタイの企業では、ピラミッド型組織が一般的で、フラット型組織はなじまないと考えられる。

 タイの企業では、華人的経営に特徴的な典型的なトップダウン型の経営スタイルが支配的である。しかし、決して専制的なトップとして企業組織で君臨することは赦されない。独裁的温情主義と名づけられたタイの政治システムが象徴的であるが、企業トップに立つ者には業務上の知識・経験を求められるのはもちろんであるが、さらに従業員を「子」としてみる「思いやり」が求められる。企業トップとしての「バラミー(徳・威信)」となる。

従って、支配階層である経営者に求められるものは従業員が平穏に生活できると考えられる労働条件を定め、また労働者の心のやすらぎが得られるような職場風土をつくることになる。一方、従業員も経営者の態度、対応に満足できれば経営者の恩顧に報いるように懸命になって働くといわれる(岡本56頁)。

 タイの企業内で作られる緩やかな階層は、より高い学歴を取得し、社会に出てからも努力すればより上の階層に加わることができるので、優秀な人ほど上昇意欲を生むことになる。この点は日本以上に実力主義が徹底されており、年功的な要素はむしろ少ないといえる。

既に見たように、かつてののタイ社会は緩やかな農村社会で、組織性が弱く、協力心が薄い社会であった。この二つが相俟って、タイ人の企業に対する帰属意識は希薄となり、自己実現に関心が向けられるので優秀な層はより高い職位、より良い処遇を求めて転職することとになる。

 しかしその一方で、平穏な日々が過ごせる良好な職場風土をも求めているので、上司との間で緩やかな信頼できる人間関係が構築され、将来の自己発展に役立つ(キャリアパスとなれる)職務が与えられていればその企業に留まりたいとの願望を持っており、一見すればウエットな面をもっているのである(岡本57頁)。

 いずれにせよ後にみる日本的な家制度はみじんもないので、経営者一族でもない限り、日本人が会社に抱くロイヤリティーのようなものは希薄であるが、従業員にとっての働きやすさというものは重要な要素となる。

 泰国的経営とは、華人的経営の持つダイナミズムに、タイの歴史が育んだ微妙なバランスの上に成り立つ企業経営といえる。

4)ほどほどの経済論

 「田に稲あり、水に魚あり」

 タイで働いた人であれば一度は耳にしたことのある有名な言葉であるが、タイは世界的に見ても、地域的な差はあるにしても概ね自然条件が豊かな国であった。

 そこで長い歴史を通して、現在の国家が形成され、その形成過程で泰国的経営と呼べるものが徐々に形成されてきた。

 タイは日本同様、西欧列強に支配された歴史を持たないが、日本と大きく異なるのは、米国同様に、国家の形成の過程で移民(タイの場合は華僑)が経済において大きな役割を果たしたということである。当然、泰国的経営といっても、かなり華人的経営の要素が強いのが現実ではあるが、その形成過程ではタイの自然条件、社会構造などタイ独自の影響を強く受けたのは間違いない。

タイは経済規模の小ささや、海外進出しているタイ企業の少なさから世界的な経済インパクトがあまり無い国であるため、その企業経営についても関心をもつ人は少ないであろう。しかしアセアン諸国の中では、日本企業の投資額はかなりのもので、特に自動車産業や電気産業の集積度は非常に高い。将来にわたって日本企業の海外製造拠点としては大きな位置を占めるのは間違いない。

国王は1997年12月の70歳誕生日祝賀会で「(経済の)虎になることが大切なのではなく、ちょうど生活できるだけの自給自足的な生活こそが大切」だと述べた。この「ほどほどの経済」論といわれる考えは、翌年の誕生日祝賀会でも再度繰り返された。国王は首相をはじめ2000人の各界各層代表に対して、「ほどほどの経済というのは、経済を何から何まで100パーセント満たすというのではなく、全部を4分の1くらいにしておいて、残りを適当に補えばいいという考えです。別の言い方として、100パーセント満たしてまだ貪欲に贅沢する人も居れば、全然満たしていない人もまだ大勢居る。国民が等しくほどほどの生活が送れることを願っているのです」(東京大学社会科学研究所)と述べている。

  日本国民にはにわかに信じられないくらい国民から敬愛を受けるラマ9世国王の言葉であるから、その影響はかなり大きかったと思われる。

 地球全体が企業活動のフィールドとなっている現在では、企業が生まれ、活動する地域の歴史や文化を企業は引きずっているという事実を忘れてしまいがちである。1997年の通貨危機の後も、タイにおける華人企業はその泰国的経営を守りながら、再び成長を始めた。日本の企業経営者も、日本的経営を捨てて、グローバルスタンダードと言われる株主至上主義的な経営だけで日本企業を経営することはできない。米国的経営に追いつき追い越すことに明け暮れてきた現代の日本企業の経営を見直すためにも、アジア的な経営である華人的経営や泰国的経営から学ぶ時なのではないだろうか。

参考文献

スキナー,ウィリアム『東南アジアの華僑社会』東洋書店1981年

リード,アンソニー 『大航海時代の東南アジア』 法政大学出版局2002年

石井米雄『タイ近世史研究所説』岩波書店 1999年

岡本邦宏『タイの労働問題』ジェトロビジネス講座1995年

朱炎 『アジア華人企業グループの実力』 ダイヤモンド社 2000年

末廣昭『タイ 開発と民主主義』岩波新書1983年

末廣昭・南原真『タイの財閥』同文館1991年

原洋之介編『新版 アジア経済論』NTT出版 2001年

原洋之介『グローバリズムの終焉』NTT 出版1999年

原田タイ・井野靖久『タイ経済入門 第2版』日本評論社1998年

東京大学社会科学研究所「『コーポレート・ガバナンス』と『グッド・ガバナンス』―世界銀行、日本、タイの捉え方」