18世紀後半にはインドの大飢饉や現地職員の不正蓄財などによりイギリス東インド会社の財政状況は危機的状況に陥る。イギリス政府の有力者にはイギリス東インド会社役員の友人や会社株主が多く、またイギリス東インド会社がイギリス政府の債権者であるなど、その一民間企業とはいえイギリス経済と密接に関連して切り離せない状況になっていた。

例えば、1700年前後にマドラス総督であったイエール(Elihu Yale)の事例がある。社員の不正を監督する立場にあったにもかかわらず自らの地位を利用して蓄財に励んだ。現地の評議会で尋問が行われイギリス本国にも報告がされたが、結局イエールの政治力でものをいったのか、厳しく罰せられることはなかった。イエール個人についてはエージェンシー理論の典型的なモラルハザードの問題であるが、組織的にはイギリス東インド会社全体合理性よりも、イエールを罰することに伴うその関係者たちが取引コストを避けようと組織の不条理であったといえる。こうした事例は独占貿易の組織体では解決されることなかったため会社への批判が続いたが、改革は行われず不条理な状態が続いた。

会社改革や解散など抜本策を実施するためには取引コストが非常に大きくなりすぎていたのである。イギリス政府は1773年規制法を成立させて、資金を貸し付けるととともに、イギリス東インド会社の運営に直接影響力を行使するようになる。

こうした状況下で1776年にアダム・スミスが『国富論』を出版した。「スミスの提唱する自由貿易という考え方は、やがて知識人や政治家の間で多数派を形成するようになり、政府の政策に取り入れられて19世紀前半には東インド会社の死命を制するようになる。」⁴⁹⁾「海外においてイギリス製の綿織物の需要が大きくなった。資本家の数が増え、彼らが政治的に大きな力を持つようになった。資本を投じてアジアとの貿易事業を始めたいと考える人々は、東インド会社だけが東インドとの貿易を独占している現状は不当だと批判を強め、自由貿易を求めた。自由貿易こそが国を富ませるというスミスの理論は、その強い追い風となった。会社が生まれた17世紀初めの時点では常識だった独占貿易という方法は、時代遅れとなっていたのである。」

産業革命で資本家が力を付けた時代に合っては市場取引を進めるべきであったところ、改革のための取引コストが大きく、経済的合理性より特権維持を目的に独占体制を維持され、時代に組織体制を合わせられなかった。18世紀には当時としては民主的と考えられた組織であったイギリス東インド会社も19世紀の自由化の時代では特権組織であり、時代の変化に対応できない組織となっていた。自由主義経済の勃興に対して組織が対応することができず、その歴史的役割を終えてゆく。

Originally posted 2020-02-20 22:12:34.