聖書の創世記で、アダムとイブが「善悪の知識の木」の実を食べ、エデンの園から追放されるという物語がある。アダムとイブはサタンの誘惑によって「善悪の知識の木」の実を食べて自ら神に背いたためにエデンの園から追放され、それ以後、人間はそれまで知らずにすんだ善悪を知るようになった。

自由市場主義者の代表格であるハイエクは『隷属への道』で、自由主義の成功が、自由を管理しなければならないという全体主義を生み、その結果自由主義の衰退の原因となったと述べた。これも創世記にあるようにサタンの誘惑によって、人間が誤りを犯した例であろう。

ハイエクは、自由主義のおかげによる広範な経済的発展は、時代が経ってゆくにつれてますます当然なこととみなされるようになり、それが自由に基づく政策の結果であると判別する能力を人々はいっそう失っていったこと、そして自由主義者の融通のきかない「自由放任(レッセ・フェール)」の原則に凝り固まった主張ほど、自由主義にとって害をなしたものはないと指摘する。

現在のグローバリゼーションはどうか。市場主義の成功が、市場がすべてを解決するという市場原理主義思想を生み、市場自体への反発を招いて市場主義の衰退の原因となる可能性があることに注意しなければならない。

ハイエクは、真の自由主義者の政策が目指すところは、社会の諸力がうまく働いていくのを助け、必要であればそれを補充していくことであり、そのために第一にしなければならないことは、その力自体を理解することにあると主張する。

 市場は優れた経済機構ではある。その力を最大限に発揮するには、市場がうまく働いていくように助け、必要であれば市場を補完することであり、そのために第一にしなければならないのは、市場の力を十分に理解することであろう。アダムスミスは、社会を成り立たしめるためには、自由の他に自由を制限するためのルールや法、さらには正義や公正の観念などが必要になることを強調した。もっと市場は自愛して大切に育てられるべきものである。

 アジアの文化の中では、ビジネス上の利益は究極的な目標ではなく、社会的な安定と豊かさが究極の目標とされ、ビジネスを支える市場組織も、富の創出と社会的まとまりのための手段であるという手段論的な見方をされる。市場自体が目的であるという神学的な見方はされない。「アジア的価値」の魅力の一つは、経済生活について徹底的に手段論的な見方をとることによって、経済政策を教条的な衝突の場としてしまう西欧の強迫観念を避けていることである。経済神学からの「アジア的」自由のおかげで、市場組織はそれが社会の価値と安定にどのような影響を与えるかという観点から判断され、改革されることが可能になる。市場はその公平性が保たれれば、多くの市場参加者が豊かになれるという非常に優れた経済的手段である。

センは日本、韓国、台湾、シンガポール、香港など東アジア諸国での「東アジアの奇跡」の要因は、基礎教育などの人間的発展を重視して、国家と市場は相互に補い合うものであるとする「東アジア戦略」にあったと指摘する。このような市場を育てるための知恵が求められている。アジア的な思想に基づく知恵が世界のために役立つ時代が到来した。