古代ギリシアでは労働は奴隷が担うのが一般的で、西欧文化では、労働に対して価値を見出すのは近代に入ってからである。中世の修道院では、労働を宗教上の鍛錬と神への奉仕活動という意義付けがなされた。カルバンに代表されるプロテスタンティズムは、世俗内での労働の意義を神への信仰と結びつける。カルバン派教徒は現世において行う社会的な労働は、ひたすら「神の栄光を増すため」のものだから、現世で人々全体のために役立とうとする職業労働もまたこのような性格をもつことになる。これが資本主義の精神的起源をピューリタンに求めるヴェーバーの仮説につながる。

中国ではモノつくりが知識人の間で軽視され、一般に道徳、詩文が重んじられた。中国では長い間詩文の科挙試験によって選出された文化人たちが士大夫階級として社会上層に君臨した。彼らは儒教を戒律とし、詩文に長じ、書を良くしたが、モノつくりは軽視した。中国で火薬や大砲、羅針盤、印刷機のようなものを発明しているにもかかわらず、雇い人である技術者階級などのやることあると考えられた。

日本は場合、中国の「士」という文字は同じでも両刀を差して社会の支配者となった「侍」の武士だった。武士はもともと力による成り上がり階級で、実用的だった。こうした実用的な日本の武士階級も、倫理的には非常にルーズだったが、美学的にはうるさかったようで、日本刀などは実用品でありながら精巧な技術品かつ工芸品は世界でも稀であった。室町時代においては精巧な日本刀な貴重な輸出品であった。

日本ではモノつくりや茶道などの実用的な技術に精神修養の意義を見出した。剣道や茶道が「道」にまで高められ、あるいはすぐれた職人の技術とその「道を極める」精神が社会のあらゆる階層に高く評価されるなど、実用的な技術とそれを支える精神性を重視した。これはそのまま、現在のモノつくりへの精神にもつながる。

ちなみにヴェーバーが資本主義の精神の起源としたピューリタン的労働観であるが、現在にいたっては本来、労働の目的であったの「神の栄光を増す」という信仰的な側面が全く失われてしまった。元来「神の栄光を増す」ための手段に過ぎなかった貨幣的価値が、自己目的化し、貨幣的価値だけが労働の目的となってしまった。

イデオロギーや宗教的なものが没落した直後に続く中間的段階では、しばしば貨幣への執着が見られる。宗教史は、信仰が薄れ、富の神格化に走った例には事欠かない。神を捨てた者は貨幣の偶像に走るという、金の牛の神話は、この一連の事情を表している。17世紀のプロテスタントの危機は、新しい宗教を生み出したが、それは、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が指摘したように、貨幣の蓄積への熱狂を伴っていた。

 ウェーバーはかつて、市民的資本主義の発達が西洋にくらべて立ち遅れている南ヨーロッパやアジア諸国の職人たちの金銭欲は、イギリス人の職人と比べて徹底的だし、厚顔だと述べたが、宗教的なものが没落した現代においては、イギリスのみならず西洋諸国(及び、世界中がそうだが)はウェーバーが立ち遅れていると指摘した状況にまで退化してしまったのである。

 現代の日欧米中に限らず多くの諸国では、その国や、企業、はては個人の力やその価値を、すべて生産力あるいは所得という経済的ものさしだけで判断するような極端に「富の神格化」の進む状況に陥ってしまった。一方、経済的には後進国とみなされがちなイスラム諸国家では、宗教的な制約が今でも強く残り、神の教えに忠実なるゆえの経済的停滞という状況に陥っている。

聖書に、

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とにつかえることはできない。」(新共同訳 マタイによる福音書5章24節)

という言葉がある。文字通り、金銭や欲望など眼に見える富ではなく、キリスト教の神に仕えることを説く教えである。

こうした価値観からは、宗教も信じる神も違うが、イスラム社会は西欧的な民主主義や経済的な側面では確かに停滞しているが、一方で宗教的な純粋さではむしろ世俗化しきったキリスト教が支配する米国よりもむしろ優れているのかもしれない。

経済的な価値か宗教的な価値か、何を価値基準として評価するかが問題なのであるが、いずれにせよバランスが必要なのは間違いないであろう。米国は、経済的な犠牲があったとしても、宗教的にはウェーバーの禁欲的なキリスト教精神にもう一度立ち返った精神性の回復が急務の課題なのではないだろうか。

 現在の日本社会構造の変革についても、まず日本人自身の精神、価値観の変革が必要なのではないだろうか。軍事大国で失敗した日本はまさに経済大国としても失敗しようとしている。日本経済の改革とはただ単に日本人が作り上げた政治経済体制を変革することを意味するのではなく、日本人の精神の変革が伴わなければならないであろう。