災害列島

日本は豊かな自然を持つ反面、自然的、地理的な条件から自然災害が多い。日本的経営の形成の基盤となった江戸期を例にあげると、江戸期は小氷期とよばれる地球的規模の気候寒冷化の時代であったが、その被害が顕著になったのは、寒冷化の第二ピークとなった宝暦・天明(1780年代)・天保期を中心とする18世紀中期から19世紀中期のほぼ1世紀であった。


江戸時代の特徴は土地に物的生産の基礎を置く社会であったこと、耕地や森林など土地の生産物が人々の日常生活を支え、風や水という自然力に依存する社会であった。そのため稲作を基礎とする農業社会にとって問題となるのは、冬の寒さと降雪よりも冷夏や長雨による日照不足と低温であり、それがもたらす飢饉であった。ただ凶作には同じ地方であっても地形などの違いから、地域差があった。
さらに社会的な要因として、日頃の備えが飢餓の有無を左右するという現代的な要因や、隣接地域、例えば隣の藩からの救済措置が取られなかったというような江戸時代特有の要因もあった。


都市化が進み、人口が密集するにともない、地震や火事などの被害が大きくなる。これは現代にも通じることで、江戸時代においても人口増加と耕地開発により生活圏が拡大したことが災害による被害規模が拡大した。
江戸時代は階級社会であった。人口現象も階級社会の影響を大きく受けた。多くの農村で上層農民は下層農民より、女性のどの年齢階層でも出生率は高かった。階層間格差によって、上層農民では早婚と多産によって家の存在が確実に行われ、さらに分家を出したり、養子に出すことでその家系を拡大することができたのに対して、下層農民ではしばしば家を継ぐ子供を確保することに失敗して絶家となって家系が消滅することも珍しくなかった。減少した下層人口を上層から下降した家族が埋め合わせたのである。出生力の階層間格差は結果的に農民層の分解を阻止して、農村社会の安定を保つ機能を果たした。


日本社会の特徴として、農家の世帯は直系家族制をとることを規範とする制度であったから、少なくとも跡継ぎ要員と目される子供はーしばしばそれは長男であるがーどれくらい賃金を得られるかとは無関係に、婚期が決定される傾向にあった。跡継ぎ要員は土地と屋敷を親から自動的にそっくり継承することがきまっているから、結婚のタイミングを決めるのは、確実に子孫を残すために何人の子供を産まなければならないか、という人口学的要因のほうが重要であった。


全国的な人口は1600年頃で1500万人、1720年頃には3200万人と寒冷化は17世紀から起きていたにもかかわらず人口は成長を続けた。しかし18世紀になると一転して減少に転じる。それは18世紀が寒冷化の極であったうえに、3000万人を超えた人口が、日本列島の収容力の限界に近づいていたことが要因であろう。事実、1870年頃でも3300万人と1720年以降150年間はほぼ横ばいであった。経済発展による過度な開発の結果、列島は気候変動を吸収するだけの余力を失っていたのである。