17世紀においては,オランダがヨーロッパ最大の経済大国であった。オランダは各州の力が強く、地方分権的というより,むしろ分裂的な国家であった。さらに,国家の経済への介入も少なかった。しかし他国は,オランダに対抗するために,国家が大きく経済に介入し、程度の差はあれ、国家指導型の経済発展をした。オランダをふくめ、ヨーロッパの大半の国では国家財政のかなりの部分を軍事費が占めるようになった。そしてオランダ以外の国では中央集権化が進んだ。²⁸⁾他国が保護主義政策をとり、中央集権化を進めると、オランダの政治制度は時代にそぐわなくなっていった。
オランダの国力は18世紀になると低下する。原因として人口減少と漁業の衰退がある。漁業の衰退の背景には、イギリス、スコットランド、デンマーク、ノルウェーなど他のヨーロッパ諸国との競争激化があった。漁業の不振はこれと密接に結びついていたバルト海の木材貿易や、ポルトガル、フランスなどとの塩の取引などにもたちまち影響を及ぼし、漁業やその加工業にたずさわっていた多数の人々の生活を脅かした。
「この傾向の原因および結果として、熟練した遠洋漁業に従事する者の急減があった。競争相手の漁業の経験に富むオランダ人漁夫を高給で引き抜いている事実もある。しかも、オランダにとって漁業は食料の確保だけではなく、遠洋航海のための人材養成の場でもあったから、漁夫の国外流出は取返しのつかない損失を意味していた。」
漁業での立ち遅れと同じ現象は、造船技術でもはっきりと現れた。16世紀にはロシアからピョートル大帝みずから習いに来たオランダの造船術も、新しい技術を開発できなかったために、18世紀後半に入ると、イギリスなどの造船所に太刀打ちできないようになる。地図作製術などについても同様である。17世紀にはオランダ人の方がイギリス人よりも航海・貿易に自信を持ち、進取の気象にも富んでいたが、18世紀の後半になると、両者の立場は完全に逆転する。³¹⁾技術上の優位性が落ちるなかでは、オランダ東インド会社の組織的な垂直統合はむしろ競争力を弱める原因となったと思われる。
「オランダの商業資本家達が自国の産業や海運に投資しないで、イギリスやフランスに投資する例が18世紀後半には頻繁にみられる。」オランダ東インド会社もこの間にアジアの地域間貿易に携わる船の数は大幅に減った。
一時期、「オランダ共和国」それ自体の政治改革と並行してオランダ東インド会社の会社機関にも主要出資者総会や監督を担う委員会の設置などある程度の「民主化」がはかられたこともあった。事なかれ主義が支配的であったオランダ東インド会社で、1792年ファン・ホーヘンドルプ (C.S. W.van Hogendorp)により自由主義に基づく会社の改革案を出されたが、十分な効果をあげることなく事実上立ち消えとなり、結果的に取締役団による会社経営の専制的支配が維持され、1795年の「オランダ共和国」の崩壊と運命を共にする形で、1799年の解散の時を迎えた。改革による取引コストの大きさから合理的に現状維持を判断した組織の不条理のため、市場化の環境変化に適応できず解散することとなった。