「東インドとの貿易とは、誰もが簡単に参加できるほど簡単なものではなかった。堅実な商人や金融業者の多くは、リスクが大きく資金が長期間固定される東インド貿易には手を出さず、より安全で短期に資本を回収できるヨーロッパ域内の貿易に投資した。16世紀末に相次いで組織されたオランダの船隊の場合は、資金に余裕があり高い利益を期待する商人や金融業者が、アムステルダムをはじめとする年ごとに共同で出資した事業だった。16世紀末の段階で、東方との貿易に意欲を持ち、それを実行できるだけの財力を有していたのは、オランダのいくつかの都市とロンドンの資本家だけだった。」
オランダでは1595年から1602年にかけてアジアと貿易する会社が14できた。諸会社が競い合ってインド洋に船団を派遣し、胡椒・香料を求めたので、現地での買い入れ価格は上昇し、本国での販売価格は下落するなど共倒れになる危険性があった。
「政治家の介入もあり、1602年3月連合東インド会社が成立した。1600年に発足したイギリス東インド会社とくらべると、10倍以上にあたる約650万ギルダーの資本金を集めた世界最初の株式会社であった。1799年まで約200年間存続した永続的な海商企業となる。」²⁰⁾この会社の成立がポルトガルと大きな違いを生むこととなる。
オランダ東インド会社は出資額を限度とする有限責任制であったが、株主総会が設置されず、経理内容も公開されずに配当も不規則で恣意的であるなど、現代企業と比較するとガバナンスが不十分であった。また、オランダ東インド会社はオランダという国に属しながら、いちいち政府の許可を得ることなく海外で要塞を建設し、総督を任命し、兵士を雇用することができるなど準国家といってもよい存在であった。ただし、東インド会社は、政府の特許状を得ているが、あくまでも民間の会社である。オランダ政府が設立した国営企業ではなかった。会社の船は大砲を積んではいるが、オランダ海軍の船ではない。オランダという国とオランダ東インド会社は一体ではない。
組織的には、6つの会社が合同してできたオランダ東インド会社は複雑な組織であった。オランダ東インド会社には本社はなく、都市に拠点を置くカーメルと呼ばれる6つの支部があった。それぞれの支部は造船所を持ち、独自に艤装を行って船を東インドへ派遣した。17人会の下に財務、監査、管財、艤装、通信などの委員会が置かれた。委員会の主な仕事は、東インドへ派遣するカーメルごとの船の隻数と社員、船員、水夫の人数の決定、東インドへ送る商品の種類と数の決定、東インドへの注文品の種類と数の決定、東インドから受け取った商品の入札競売、出資者への配当額の決定などだった。
会社経営全般については、各支部の代表60人からなる取締役会が責任を持った。ポルトガルのピア・グループではなく、地域別の単純層組織となることで、取引コストを削減することができたと考えられる。
オランダ東インド会社は、イギリス東インド会社とは異なり、船を建造所有して船員の雇用も行い、国際貿易のほかに造船業、海運業も行う複合型の大企業だった。²³⁾垂直統合が進んだ組織であった。当時のオランダは造船業、海運業が発達しており、イギリスなど他国へ船舶を供給する側であった。他の東インド会社でもオランダ東インド会社のように垂直統合を進めるのが一般的で、イギリス東インド会社だけが例外であった。
オランダ東インド会社はいわゆる専制型株式会社であった。オランダ東インド会社の目的はいうまでもなく東インド貿易の独占にあり、連邦議会から賦与された「特許状」に基づいて、東インド地域、つまり、喜望峰からマゼラン海峡に至る地域との貿易独占権と、当該地域における国家主権(同盟や条約を締結する権利や、軍事・警察・司法上の権限)の代行を容認された会社企業であった。オランダ東インド会社自体が、当時の「オランダ共和国」の政治的・経済的支配層(特にアムステルダムを中心とした都市の少数の大商業資本家門閥=都市貴族)と人的に密接に絡み合った、きわめて例外的かつ政治的な特権会社、いわば「国家内の国家」とでもいうべき存在だった。
私貿易で私腹を肥やす事態が後を絶たたないことに手を焼いていた2回目の着任であった総督クーン(Jan Pieterszoon Coen)は、1625年当時の民主主義勢力の政治的潮流に沿って、本心とは異なり、自由貿易推進案を連邦議会に送るなどした。議会は可否を検討したが、結局、特許状によって設立されたオランダ東インド会社の趣旨と矛盾するという理由でこの案は破棄された。
これ以降、「オランダ東インド会社の経営の危機が叫ばれる時には、必ず独占貿易が問題にされ、自由貿易を望む声が常によみがえる」ことから考えると、設立の趣旨に反して会社を変革させるための取引コストの大きさが改革を阻む不条理が存在した。