「アムステルダムが世界市場の中心となった17世紀はオランダの世紀と呼ばれる。」
オランダは鰊漁を中心に漁業を発展させることができた。鰊漁は、漁船の建造をはじめ各種手工業、商業の発展を促し、操船技術の向上にも寄与して海運業発展の土台となった。鰊漁は、「オランダ発展の母」と認められるほど、オランダにとって重要な産業部門だった。農業には適さない低湿地が多かったため、多くのオランダ人が早くから漁業や海運業などを営んで海に進出していた。
海運・商業を発展させたオランダは、活動領域を北海から東のバルト海へと拡大させていった。バルト海から輸入される穀物、さらには海運資材をヨーロッパ各地に運搬する海運業で、巨額の利益をえて、ヨーロッパの物流の中心になった。
この時代、オランダはヨーロッパの対外進出に必要な海運資材を、さまざまな国に輸送した。オランダの物流システムがなければ、ヨーロッパはヨーロッパ外世界へ進出できなかった。ヨーロッパの世界支配は、18世紀末までは、オランダの物流システムに大きく依存していたのである。
海運業者の中には、ポルトガルのリスボンに赴いて胡椒や香辛料など東インドの品物を仕入れ、それをバルト海沿岸の諸地方まで輸送する者もいた。しかし、オランダとハプスブルグ家が戦争状態に入ると、オランダはイベリア半島の港の町への寄港を差し止められた。そのため、オランダ人は自力で東インドへの航海を目指すこととなる。