イギリス東インド会社は1600年に設立された。会社を設立したのはあくまでもロンドンの商人たちであり、国王はこれを認可したにすぎない。当時のイギリス王や政府が、自らこのような貿易会社をつくる意思はなかった。少なくとも当初会社を設立した資本家たちもこれを認可した国王も、武力による領土の獲得は考えていなかった。何よりもアジアの豊かな物産を取引する貿易によって利益を上げることがこの会社の究極の目標だった。
ただし、東インド会社の全構成員の出資を結合した会社企業の設立は取りやめられた。現実に払い込みを希望する者からなる個別会社を設立し、これが東インド会社の名の下で東インド貿易に携わっていた。個別会社制は1601年から1613年まで続き、一航海ごとに資金を集め、アジアに出かけて行った船が積み荷を積んで帰国した後、その輸入品を資本またはその輸入品販売代金を投資額に比例して株主に分配するという方法が取られた。イギリス東インド会社も時代によって組織形態は変わっていくが、当初はピア・グループと同じで、ポルトガル時代のものと変わらない。
当初は一航海ごとに元本も収益も含めたものが清算され、すべて株主に分配された。一航海ごとに清算していたのでは、すでに永続的な会社組織を整えて営業しているオランダ東インド会社に到底太刀打ちすることができない。そこで、複数航海を含んだ比較的永続的な合本企業が組織された。ただし、オランダと違って当時のイギリスでは大量の資金を集めることができず、恒久的な会社とすることはできなかった。当初は不安定であったが、のち大会社に発展するイギリス東インド会社の基礎はこうして築かれた。
船主の権利は株券と同じで、一回の航海が終わると、別の希望者に譲渡されることも多かった。船長をはじめ船乗りは船主側が雇用し、東インド会社と船主が船の賃貸の期間、航海先の港、船荷の種類、違約の際の取り決めなどの契約を交わしたうえで、船は東インドへと向かった。この意味で、イギリス東インド会社は、国際商業に特化した純然たる貿易会社であり、海運業者ではなかった。フランス東インド会社は、少なくとも1730年以後はロリアンの造船所で建造した。デンマーク東インド会社もコペンハーゲンに造船所に持ち、スウェーデンとオーストリアの東インド会社は船を購入し所有した。つまり、船を自前で作らずに借りていたのは、イギリスの東インド会社だけだった。船を所有するか賃貸にするかという選択には一長一短があり、一方が他方より大きく勝っているというわけではなかった。
自由競争が基本の現在ならば、複数の造船業者、海運業者に競争させてもっとも低価格な業者と契約するのが合理的である。しかし、イギリス東インド会社は、会社の重役や株主の多くが造船業や海運業に投資していたため、少しでも高い金額で会社に自分の船を借りさせ、必ずしも価格競争が働かなかった。